Economist 物語

  • 穀物法反対運動から生まれたエコノミスト

    イギリスの週刊経済紙、エコノミストが創刊されたのは、今から約170年前の1843年である。ヴィクトリア女王即位の六年後、繁栄を謳歌したヴィクトリア朝が始まったばかりであった。イギリスの国民的新聞タイムズは、この時すでに創刊から約60年が経過し、イギリス最大の発行部数を誇る、押しも押されもせぬ国民的新聞の地位を築き上げていた。

    創業者はジェームズ・ウィルソン、スコットランド出身の帽子製造業者だ。どうして、帽子製造業者のウィルソンが経済専門紙を創業したのかについては、当時の時代背景を少し知っておく必要がある。当時イギリスには穀物法という法律があった。外国の安価な穀物に高い関税を課すことによって国内の農業を保護する目的で施行された。農地を所有しているのは貴族だから、簡単に言えば大土地所有者=貴族を保護するための法律だ。高い穀物やパンを買わされる工業家や労働者は反対して、穀物法に反対するための運動が全国的に盛り上がった。タイムズも穀物法を反対するための論陣を張った。ウィルソンは、学問にも関心を持っていた実業家で、アダム・スミスやリカードなど、自由貿易を志向する当時の先端的な経済学の教養を身に着けていたから、当然のように穀物法反対の機運の高まりには注目していた。長い論文を書いて、パンフレットに発表し、時論家としての声望も得るようになった。

    だが、それだけでは飽き足りなかったようだ。単なる時論家に止まるのではなく、新聞を発行し、自由貿易の価値を説き続けることが必要だと考えるようになった。こうして、1843年8月1日、エコノミストが生まれたのである。当時は経済学の歴史の中では、古典派経済学の完成期とされる。創刊以来、自由貿易や市場経済の利点を説き続けてきたエコノミストは、スミス、リカードらの古典派経済学の申し子と言えるだろう。

  • エコノミストから浮かび上がる19世紀綿花の歴史

    エコノミスト創刊当時、綿花の最大の供給地はアメリカだった。綿花が栽培されたのは、アメリカ南部のプランテーションである。プランテーションで労働していたのは、奴隷だ。この奴隷制をめぐってアメリカ国内を二分する議論が沸き起こった。奴隷制の廃止を求める北部諸州と奴隷制の存続を求める南部諸州だ。奴隷制の廃止を主張するリンカーンが大統領に就任するに及び、対立は決定的になり、南部諸州は合衆国から分離、南北の間で内戦が勃発した。南北戦争である。

    ところで、イギリスは南北戦争では奴隷制を維持しようとする南部を支持した。その理由は、南部がイギリスの貿易にとって重要な綿花供給地だったからだ。南北戦争の各陣営の貿易政策は、工業地帯の北部が保護貿易を志向したのに対して、南部は自由貿易を志向した。当時のアメリカの工業はまだ発展途上にあったから、イギリスをはじめとする先進国との競争を回避するため、保護貿易を志向したのである。それに対して、綿花の輸出を通じてイギリスとの繋がりが強い南部はイギリスと同じく自由貿易を志向したというわけである。

    ところが、南北戦争が進むと、南部からのイギリスへの綿花の輸出が北部の妨害により激減し、イギリスを大きな混乱に陥れた。これが「綿花飢饉(Cotton Famine)」である。エコノミストは1862年4月12日号に「綿花飢饉:その事実と効果(The Cotton Famine: Its Facts and Its Effects)」という記事を掲載し、事実経過と今後の見通しについて分析を加えている。この記事によれば、イギリスの綿花消費量の三分の二から四分の三がアメリカからの輸入であったというから、影響の大きさが推し量られる。

    南北戦争は、よく知られている通り、北部の勝利に終わり、奴隷解放宣言により奴隷は公式に解放された。イギリスの綿花の主要な輸入元も、南北戦争を契機にアメリカからインドへと移行し、インド綿がイギリス綿製品の原料として供給されるようになる。南北戦争をめぐる自由貿易と保護貿易の対立、南北戦争を分岐点とする綿花供給地の移動といった十九世紀の重要な経済史上の出来事が、エコノミストを通じて浮かび上がってくるのである。

  • エコノミストは歴史統計データの宝庫

    以前述べたように、エコノミストの創業者ウィルソンは、抽象的な思弁を嫌い、具体的な事実を重んじるタイプの人であり、それがエコノミストの編集方針にも貫かれた。エコノミストは経済紙だ。経済の事実を表すものと言えば、統計データである。新聞の経済データと言えば、株価、国債などの債権価格、外国為替レート、金、原油、食糧などの商品価格などがすぐ思い浮かぶだろう。

    これらは現在、新聞に毎日掲載されるが、掲載されるのはその時々の一瞬の価格である。それに対して、日本が原油をどの国からどれだけの量を輸入していて、その数字がここ数年どのように推移したとか、日本とアメリカの貿易品目の各々の量はここ数年どのように推移したかといった統計データを入手したい場合、人は何を参照するだろうか。最も確実なのは『経済白書』に代表される政府や省庁が発行する統計資料だろう。少なくとも、これらの数字を得るために新聞を広げる人はいないだろう。だが、エコノミストにはこれらの経済データが豊富に掲載されているのである。イギリスに小麦を供給するのはどの国でどれだけ供給しているか、明治初期のイギリスと日本の貿易品目にはどんなものがあり、どれだけの量が取引されていたか、・・・・・・。そして、これらの統計データは、通常の記事の中に出てくるだけでなく、定期的に(月に一回、年に一回)エコノミスト本紙に含まれる形で発行されるサプルメント(補遺)の中にも掲載されているのだ。

    これらのサプルメントを通して見ることにより、長期に亘る経済の推移が数字の形で眼の前に浮かび上がってくる。時代が遡れば、統計データの入手が容易でなくなることを考えると、これが貴重なデータであることは言うまでもない。エコノミストは歴史統計データの宝庫である。

  • 経済白書や経済報告書としても読めるエコノミスト

    前回、エコノミストが定期的にサプルメントを収録したという話をした。具体的に、サプルメント名を挙げると以下の通りになる。

    ・Accounts Relating to Trade and Navigator of the United Kingdom (1845年3月22日号以降、月刊、後に年刊)

    ・Reports of Joint Banks of the United Kingdom (1861年4月6日号以降、年二回刊)

    ・Commercial History and Review (1864年2月20日号以降、年刊)

    ・Investor’s Monthly Manual(1864年以降)

    ・Insurance Supplement (1923年7月14日号以降、年刊)

    この中の”Commercial History and Review”を取り上げると、これは前の年の貿易、物価、商品市場、債券市場、海外市場の動向などについて、統計データを交えて詳細に報告するものである。そして、毎回冒頭で、概況が語られる。最初の号、1864年2月20日の号の冒頭部分は以下のようになっている。「(前年の)1863年の経済は、主として三つの原因に起因するものだった。一つは、有限責任の原理が広範囲に適用されたこと、二つ目は綿花供給地がアメリカからインド、エジプト、ブラジル等に移ったこと、三つ目はデンマーク王逝去に伴う混乱である。」綿花供給地の変化は、以前に触れた綿花飢饉によって起こったことだ。冒頭の概況だけ読んでも、その時代の経済の状況が同時代人の眼で描かれていて、貴重である。

    ところで、前の年の経済の概況を統計データを交えて報告するというこのやり方だが、現在で言えば、経済白書に相当するだろう。そうなのだ、エコノミストの”Commercial History and Review”はこの時代のイギリスを中心とする国際経済の白書みたいなものだ。また、これ以外の金融、通商、財政、保険等を扱うサプルメントは、現在で言えば、政府や民間機関が発行する各種報告書である。エコノミストは通常の新聞記事に加え、現在で言うところの経済白書や経済報告書の類のものも掲載しているのだ。

    図書館のレファレンス担当者であれば、どの国であれ、どの時代であれ「経済白書のようなものを探しているのですが・・・」という利用者の問い合わせを受けることはあるだろう。19世紀半ばから20世紀までのイギリスを中心とする国際経済については、まさにエコノミストが格好の資料なのだ。

  • 事実や統計を重視した創業者ウィルソン

    経済あるいは経済学の社会の中での位置づけやイメージは、エコノミスト創刊の頃と現在とでは大分異なる。エコノミストが創刊された頃、ケンブリッジ大学には経済学部はまだ存在しない。アダム・スミスの大学での肩書は「道徳哲学教授」だった。リカードは大学人ですらない。当時のエリート教育の本流は、古典、つまり古代ギリシア、ローマの言語、歴史、哲学の習得であり、そのような教育環境の中で、商品やお金に関わる学問は傍流と見なされて当然だった。だが、エコノミスト創刊から半世紀ぐらい経過すると、イギリスの教育事情も変わり、経済に関わる学問の地位が浮上し、アルフレッド・マーシャルによってケンブリッジ大学に経済学部が創設される。ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスが創設されるのも十九世紀後半のことである。それから百年以上経過して現在では、経済をめぐる話題は毎日のようにメディアを賑わし、学問としての経済学も人気学部の一つと言ってよいだろう。逆に、エコノミスト創刊の頃に教育の本流だった古典教育の方が、現在はその意義を問われることが多いだろう。

    このように見てゆくと、ジェームズ・ウィルソンは社会の中での経済や経済学の位置づけについて、先見の明を持っていたと言えるだろう。ウィルソンは事実を踏まえて論証することの重要性を一貫して説き続けた。また、子供の頃から数字や統計に対する興味が人並み以上に大きかったと言う。

    TPPに典型的に現れている貿易の自由化の是非、あるいは中央銀行の政策など、現在論議を呼ぶ経済的争点の中には、エコノミスト創刊から数十年の間にイギリスで問題の原型が生まれたものが多い。その意味で、現在の問題への示唆を得るためにも、過去のエコノミストの記事を遡ってみることは大いに意味があるだろう。

  • エコノミストの創刊趣意書

    1843年8月1日のエコノミスト創刊号には”Prospectus”が掲載された。”Prospectus”は日本語では「趣意書」と呼ばれ、出版物の概要を出版前に公表する梗概を指す場合が多いが、ここでは創刊にあたって、今後の編集方針の概略を述べたものだ。今後エコノミストが記事として掲載を予定しているものとして、十三項目が挙げられている。一つ一つ見てみよう。

    一番目は、巻頭記事。巻頭記事では、政治と議会の問題や財政、通商、農業の問題を論じる場合に、自由貿易の原理を厳格に適用することが宣言されている。

    二番目は、実務的な問題に関する記事。

    三番目は、政治経済学の基本原理を平易な形で実務的問題に適用する記事。とりわけ、価格や生産者と消費者の関係といった問題を、自国や外国の例を参考にしながら解説するとしている。

    四番目は、議会の討議報告。通商、農業、自由貿易に関する議会の討議を詳細に報告すると予告している。

    五番目は、民衆運動に関する記事で、自由貿易を支持する国内の運動を幅広く報告し、解説するとしている。

    六番目は、一般ニュース。ロンドン、地方、宮廷、スコットランド、アイルランドで一週間に起こった出来事を報道する記事だ。

    七番目は、通商記事。市場の現況や予測、輸出入の動向、商品の供給に影響を与える可能性のある外国ニュース、工業地帯の動向、技術革新、海運、通貨、鉄道等に関する記事が掲載される。

    八番目は、農業記事。農業における革新、地質学や化学の農業への応用に関する事例を紹介し、保護に依存するのではなく、知恵や工夫によって農業を発展させようとする独立の精神を支援することを謳っている。

    九番目は、植民地、外国記事。外国における通商、製品、政治の動向を迅速に報道し、自由貿易の利益と規制や保護の不利益を明らかにするよう努めるとしている。

    十番目は、法律記事。通商、工業、農業にとって重要な法律に限って報道すると予告している。

    十一番目は、書籍に関する記事。政治経済、金融、税に関する書籍を優先的に取り上げるが、これらに限定するわけではないと予告している。

    十二番目は、通商官報。最新の価格と統計を掲載する。

    十三番目は、投書欄。

    これを見ると、エコノミストが当初から、保護主義を取り除き自由貿易の促進を使命としていたことが如実に分る。この十三項目の趣意書は、現在の経済専門紙にもほぼ当てはまるくらいだ。現在の日本経済新聞の記事も、この趣意書から大きくは隔たっていない。その意味でこれは、エコノミストに止まらず、その後の経済専門紙の趣意書と言っても過言ではないだろう。

  • ウィルソンはセルフヘルプの精神を体現したスコットランド人

    どの新聞でも、その歴史を知るにはその創業者のことを知る必要がある。これは、タイムズなどの他の新聞以上にエコノミストに当てはまる。エコノミストの創業者、ジェームズ・ウィルソンは編集者でもあり、多くの記事を書いた。それだけでなく、新聞はどうあるべきか、社会はどうあるべきかについて、確固とした信念を持ち、それを生涯貫いた。ウィルソンがエコノミストの編集方針として固めた趣意書は、ウィルソン亡きあとのエコノミストの導きの糸になったが、それだけでなく、後の編集者にもウィルソンは大きな精神的影響を及ぼした。エコノミスト史上最も著名な編集者であり、ウィルソンの娘婿にあたるウォルター・バジョットを挙げることができるだろう。

    だが、エコノミストの歴史におけるウィルソンの存在の大きさだけを指摘するだけでは足りない。その言行を見てゆくと、ウィルソンがある典型的なイギリス人を体現していることに気付く。ウィルソンを一言で表現すれば、「骨の髄からの実業家」だ。抽象的な思考を嫌い、具体的な事実に重きを置き、どんなことであれ、実生活の中での価値は何かという観点から判断した。この辺りは典型的なイギリス人と言えよう。教育においても実学を重視し、オックスフォード、ケンブリッジ流の伝統的な大学教育には何ら価値を認めなかった。「大学を卒業し外の世界に出た時に、真の教育が始まる」とも言っている。また、誰もが、自らの能力と勤勉により貧しい境遇から社会の階段を上がることが出来ると信じていた点では、サミュエル・スマイルズ(ウィルソンの同時代人)のセルフ・ヘルプの精神を体現していた人だとも言える。

    ウィルソンがスコットランド出身であることを考えると、典型的なイギリス人というより、むしろ典型的なスコットランド人と言った方がよいかも知れない。スマイルズもスコットランド人だ。そして、ウィルソンが堅持した古典派経済学の始祖アダム・スミスも。こうして見ると、エコノミストは、イギリスで連綿として継承されているスコットランド精神とでも呼びうるものを体現した新聞である、と言えないだろうか。

  • エコノミストは銀行学派と通貨学派の論争に関する貴重資料

    世の中にお金がどれだけ出回るかは、国にも企業にも個人にも大切な問題だ。そして、世の中のお金の総量をコントロールしているのが、中央銀行である。景気が過熱してインフレ気味になれば、お金の総量を下げ、不況になればお金を供給して、経済を活気づけるのが、通貨の番人たる中央銀行の大切な役目の一つである。だが、中央銀行のお金の供給を巡っては、経済学者の間で大きな論争が繰り広げられてきた。そして、現在に至るまで解決したとは言い難い、銀行による正しいお金の発行の仕方は何かという難問を巡って、エコノミストが創刊された頃に、大きな論争が経済学者や実務家の間で起こった。銀行学派と通貨学派の論争である。

    当時のイギリスでは、現代日本とは異なり、銀行券はいつでも金と交換できた(兌換紙幣)。逆に言えば、金の総量が銀行券の総量をある程度決定していたのだ。このような状況の中で、金の総量(金準備)を超えて、銀行が銀行券を発行すれば、銀行券が多くなるだけ、インフレになる(銀行券の価値が下がる)。これにどう対処すべきか、というところで人々の意見が分かれた。インフレになり、銀行券の価値が下がれば、銀行券を保有する人は価値が安定している金と交換するだろうから、銀行券の過剰は解決すると考える人々が一方にいた。それに対して、そのような解決は期待できないので、銀行券を発行する中央銀行が事前に発行の水準を規制すべきだと考える人々がいた。前者が銀行学派で、後者が通貨学派だ。エコノミスト創刊の翌年には、通貨学派の主張を盛り込んだ法律が施行された(ピール銀行条例)。

    エコノミストの創業者、ウィルソンは銀行学派の主要人物の一人として、この論争が回顧されるときに必ず紹介される。当然のことながら、ウィルソンは自分の見解を世に広めようと、エコノミストの記事の中で健筆を揮った。銀行学派と通貨学派の論争は、十九世紀の経済学の歴史の中でも最重要論争とされる。その論争の当事者の記事が多数掲載されたエコノミストは、貴重な歴史資料であると共に、現在のお金の問題を考えるときにも、大きな示唆を与えてくれるだろう。

  • エコノミスト創刊の頃、世は鉄道ブームに沸き立っていた

    十九世紀はいろいろな特徴付けができるが、その中でも鉄道は十九世紀を象徴するものと言えるだろう。鉄道が人々に与えた驚きは、この時代の文学作品や絵画等の芸術作品で描かれている。二十世紀が自動車の世紀とすれば、十九世紀は鉄道の世紀だ。リヴァプールとマンチェスター間に鉄道が開業したのは1830年、エコノミスト創刊の13年前のことだ。以来、イギリス各地に鉄道が敷設され、エコノミスト創刊の頃には、総延長距離は2,000マイルに達していた。エコノミストは、イギリスが国を挙げて鉄道ブームに沸き立った、鉄道狂時代とも言われる時に誕生したことを覚えておきたい。

    当然のことながら、この鉄道ブームはエコノミストの紙面に反映せずにはいられない。鉄道は多額の投資を要するため、資金を調達する債券市場が欠かせない。エコノミスト創刊の頃、株価等の金融情報は、あるにはあったが、非常に限られたスペースしか与えられていなかった。だが、読者のニーズを敏感に察知した創業者ウィルソンは、創刊半年後には、イギリスの国債だけでなく、アメリカやフランスの国債、外国の株式、鉄道債など、株式金融情報のスペースを大幅に拡充した。鉄道とは直接関わりないが、「貨幣市場(Money Market)」の欄が現れ、外国為替の情報が包括的に提供されるようになるのは、1845年の初号だ。

    この鉄道ブームの中で、鉄道を規制する法案が議会に提出された。提出したのは後の首相グラッドストーン。この法案が政府の規制を嫌うウィルソンの自由主義魂に火を点けたのである。

  • エコノミストは鉄道投機熱から距離を置き、統計データの提供に徹した

    エコノミスト創刊の翌年に議会に提出された鉄道法案は、鉄道の運賃や利潤を政府が規制するなど、実質的に鉄道の国有化を目論んでいた。ウィルソンは早速、7月6日号の社説「グラッドストーン氏の鉄道法案」でこれを批判した。「実務と事実を重んじる我が国の通商を管轄する組織のトップに、形而上学的思弁と抽象的思弁を弄する才知に長けた人物を戴くとは、誠に奇妙なことである。」と始まるその批判は、事実を示しながら、民間のことは民間に任せよと主張する。二週間後の7月20日の社説でも再度この法案を取り上げている。最終的にこの法案は骨抜きにされ、国有化は回避された。ウィルソンの期待通りになったのである。

    だが、ウィルソンの批判の矛先は政府だけに止まらなかった。グラッドストーンの法案が提出されたそもそもの原因は鉄道を巡る投機にあった。投機こそが政府の不要な規制を招く、そう考えたウィルソンは、鉄道投機熱を煽るだけ煽った鉄道関連雑誌とは一線を画し、鉄道株や投資に関する正確な情報を提供することを使命と考え、「鉄道モニター(Railway Monitor)」という欄を新設し、エコノミストのサブタイトルにもこの語を加えることに決めた。

    その後、「鉄道モニター」欄は1870年まで独立した欄として情報提供を続け、役割を終えた。サブタイトルから「鉄道モニター」が消えたのは1934年である。鉄道投機熱から距離を置きつつ客観的なデータを提供し続けたエコノミストは、十九世紀イギリス鉄道史の統計アルマナックと呼ぶことができるだろう。

  • エコノミストが見た恐慌

    エコノミスト創刊の頃にイギリス国内が沸き立っていた鉄道ブームも、終わりを迎える時が来た。好況の後には不況(恐慌)が訪れる。この景気循環が、ある程度定期的に観察されるようになったのも十九世紀が初めてである。特に1820年代以後イギリスは、ほぼ十年間隔で恐慌に見舞われた。エコノミストが最初に目撃した恐慌は、創刊から四年後の1847年だ。

    エコノミストは1847年の恐慌をどのように報じたのだろうか。二十世紀前半の世界大恐慌の端緒となった1929年10月24日の暗黒の木曜日のように、恐慌が始まった日付が残されているわけではない。そこで、”Crisis”で検索すると、現在の危機の本質を突き止めようと試みる記事や社説が出てくる。

    これらの記事を見て気が付くのは、エコノミストが恐慌の根本的な原因をお金(貨幣)に求めていることである。「今回の危機、貨幣市場」というタイトルの長文の社説も掲載されている。5月1日号の巻頭記事では、「商品の交換を促すために貨幣を導入したことから世界が受けてきた便益は大きいと認めるにしても、交換を規制する原理に関するところで、混乱が生じたために、この便益がどれだけ減少することになったか、評価するのは容易ではないだろう。信用と貨幣の導入が、通商を行なう上でも、文明の生活を享受するためにも必要であるとしても、商品交換の基本的なルールから注意を逸らしたために、そうでなければ単純明快だったものを複雑にし、混乱に陥れてしまったのだ。」

    ここに見られるのは、貨幣が商品を交換する手段から離れ、人々の手に負えなくなってしまった状況に対する驚きである。その点では、二十一世紀の現在、私たちがグローバリゼーションという形で経験していることと、本質的には変わりないだろう。この後、世界は何回かの不況、恐慌を体験し、その都度、貨幣の暴力的力を目の当たりにしてきた。1847年の恐慌に関するエコノミストの記事を、私たちは同時代人の眼で見ることができるのである。

  • 綿織物を巡るインドとイギリス

    エコノミストが創刊された頃、イギリスでは産業革命が終わり、工業国家として離陸し、大英帝国の繁栄を享受し始めていた。この時代のリーディング産業は何だったかというと、綿織物工業である。イギリスの織物工業と言えば、伝統的には毛織物工業(羊毛工業)が栄えていた。だが、インド産の安価な綿布(キャリコ)が輸入され、肌触りや吸湿性が良く、染色し易く、そして何より安価であるため、イギリス人の衣料生活を変えたと言われるまでにブームとなった。ところが、キャリコに押されて伝統的な毛織物が売れなくなると、手織物工業に従事する人々は、政府を動かして輸入キャリコに高い関税を課し、自分たちの産業を守ろうとした。これは、エコノミストが創刊される百五十年ほど前の話である。外国の、それもアジアの産業から自国の産業を守るために高い関税を課すとは、エコノミスト創刊の頃のイギリスから見れば、別の国のようである。

    だが、いくら高い関税を課しても、外国の綿織物に対するイギリス国内の需要は減少しなかった。そこで、イギリス人が考えたのは、外国から輸入するのではなく、自分の国で作れば良いではないか、ということだ。品質にも優れ、安価な綿織物を大量に作る、ということを。こうして、綿織物のための様々な機械が発明された。ジェニー紡績機、水力紡績機、ミュール紡績機、力織機・・・。イギリスの産業革命とは、当時の先進的なインドの綿織物への依存を克服したいというイギリス人の悲願から生まれたのである。自国の綿織物工業が軌道に乗ると、今度は綿花の安定的供給を考えなければならない。イギリスは産業革命の時代に、インドを綿製品の生産地から自国綿工業のための綿花の独占的供給地に変えるために、相当な荒療治をインド国内で行なったと言われている。その結果、インドの紡績は壊滅的な打撃を受けることになった。

    創刊当初のエコノミストには、インドと綿花をめぐる記事が多い。その中で、1847年には「なぜインドは我々に綿花を供給しないのか?」という社説を実に五回に亘り、掲載している。国内の紡績業を存立させるためにもインドからの綿花の供給を確保しなければならない、というのがこの記事の論調だ。綿織物をめぐるイギリスとインドの歴史を知った上でこの記事を読むと、歴史の冷厳さということを感じないわけにはいかない。

  • エコノミストの日本関係特集記事

    『2050年の世界:英エコノミスト誌は予測する』という本がある(2012年、文藝春秋)。エコノミストの編集者、記者が2050年の世界を、人口、文化、宗教から政府、経済、環境、知識、科学まで、広範囲の分野にわたって予測したものだ。日本に対しては、年齢の中央値が52.3歳という世界の歴史が経験したことのない高齢化社会に突入し、世界のGDPに占める割合は2010年の5.8%から1.9%に減少し、一人当たりGDPではロシアや韓国を大きく下回るという厳しい予測が突きつけられている。

    ところで、この種の予測記事に代表される特集記事はエコノミストのお家芸といってもよく、一つのテーマを様々な視点から考察した読み応えのある記事をこれまでも提供してきた。単なる事実や出来事の報道だけでなく、事実の背景まで掘り下げた分析を記事にまとめあげるスタイルがエコノミストの持ち味であり、その分析力には定評がある。

    日本に関係する特集記事としては、1962年9月1日と9月8日の二回に亘り掲載され、日本が経済大国になると予測した「Consider Japan(日本を考察する)」が有名だ。1962年と言えば、所得倍増計画が発表された2年後。高度経済成長がすでに始まっていたとは言え、日本はまだ途上国。その時に、日本が経済大国になると予測したエコノミストの記事は世界に大きなインパクトを与えた。終身雇用制や日本人の貯蓄性向の高さを取り上げている点も注目される。

    その後もエコノミストは機会をとらえて日本関係の特集記事を掲載した(「Consider Japan」を含めると14本)。エコノミストは、高度成長からバブルを経て低成長、デフレへと至る戦後日本経済を独自の視点から分析し続けてきたのである。