本コレクションは米国国立公文書館が所蔵する国務省一般記録群(RG59)のセントラル・ファイルの中から、米露・米ソ通商貿易関係に関する外交文書約37,000ページを収録するものです。
米国企業は帝政時代のロシアに積極的に投資を行ない、ロシア経済の近代化、工業化に大きな役割を果たしました。中でも、農機具メーカーのインターナショナル・ハーベスター社(International Harvester)とミシンメーカーのシンガー社(Singer)はロシアで事業展開した企業の中でも最大規模の2社であり、シンガー社は90%の市場シェアを有する独占的地位を有していました。
帝政末期、ロシアでユダヤ人に対する迫害が生じる中で、米国世論の対露感情が悪化したことが一因となって、米国議会は1832年締結の米露通商条約を1912年に破棄しますが、実質的には両国の通商関係はほとんど影響を受けることはありませんでした。しかし、米露通商関係はロシア革命によって変更を余儀なくされます。ロシアにおける共産主義政権の誕生により、両国の外交関係は断絶し、ソビエト政権において外国貿易は国家の管理下に置かれます。
外交関係は途絶えたものの、両国の通商関係は一定の規模で継続しました。1920年代の米ソ通商関係はアーマンド・ハマー(Armand Hammer)の存在を抜きに語ることはできません。ロシア系移民三世で、医者から製薬ビジネスに転身したハマーは革命後の混乱期にロシアに渡り、食糧や物資の提供という形で救援の手を差し伸べます。レーニンらソビエト指導部の要人とも面会し、ソ連国内における米国製品の販売利権を獲得し、フォード社ら米系企業の対ソ輸出拡大に寄与しました。
ハマーは米ソの合弁会社アムトルグ貿易会社(Amtorg Trading Corporation)の設立にも関わり、米ソ間の貿易振興を図ります。アムトルグ貿易会社は米国製品の対ソ輸出に関しては、他の米国企業と競合する立場にあったのに対して、ソ連製品の米国への輸出に関しては独占的地位を確保しました。同社はソ連では外国貿易人民委員部の管理下に置かれ、対米貿易代表部として機能しました。
1930年代になると経済一辺倒だった米ソ関係に変化が生じます。大恐慌の嵐が吹き荒れる中、フランクリン・ルーズベルト大統領は就任早々の1933年、国内の雇用創出政策の一環としてソ連への輸出促進を図る目的で、ソ連を外交的に承認、米ソ外交関係を正式に樹立、1935年には通商協定を提携します。しかし、米ソ間の貿易は当局の期待通りには増加しませんでした。1920年代から1930年代にかけての主要貿易品を見ると、米国からは工作機械、電炉、鋼板、合金鉄等の工業製品が対ソ輸出の大きな比重を占めたのに対して、ソ連からはプラチナ、マンガン鉱石、クローム鉱石、無煙炭、薬草、植物油、毛皮、獣皮等の一次産品が対米輸出の中心でした。米国の貿易全体に占めるソ連との貿易は輸出、輸入ともに極めて少ない水準で推移しました。
第二次大戦が勃発すると、両国の経済関係は新たな局面を迎えます。米国でレンドリース法が成立し、連合国に対して武器や物資を貸与する体制が整いました。ソ連に対しては武器、弾薬、軍装備品から食糧品、鉄鋼、毛織物、綿織物、鉄道車両、船舶等、広範囲の物資が貸与され、貸与品の総額は大戦終了時までに100億ドル近くに達しました。
第二次大戦で同盟関係にあった米ソの経済関係は、戦後の冷戦下で再び、新局面に入ります。1949年に米国で輸出管理法(Export Control Act)が成立、米国を中心とする自由主義諸国間で対共産圏輸出統制委員会(ココム)が発足し、ソ連を含む共産主義圏への軍民両用技術と製品の輸出統制体制が敷かれる中で、米ソ間の貿易は対共産圏に対する輸出規制によって、その規模を左右されるようになりました。
収録文書は米国国立公文書館のファイリング・システムに準じた文書番号が付与されています。国務省一般記録群(RG59)は、1910年から1963年まで十進分類法に則ったファイリング・システムによって整理されていたため、デシマル・ファイル(Decimal File)と呼ばれています。このシステムでは分類番号と国番号の組み合わせによる文書番号が各文書に付与されています(分類番号は1950年に見直しがなされました)。
収録文書を見ると、1949年までは米露・米ソ間貿易に関する文書が大半を占めますが、1950年以降は米ソ間貿易に関する文書は一部に過ぎず、米国を含む世界各国からソ連への輸出に関する文書が収録されています。対共産圏輸出規制体制の下で、他国のソ連に対する輸出に米国が高い関心を払っていたことを示すとともに、米国の関心の対象を明らかにする文書群です。