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はじめに

『デイリー・ミラー』にはイギリスにおいて最も成功を収め、影響力を有してきた新聞と呼ばれる十分な資格がある。その全盛期だった20世紀半ばには、保守的な中流階級の声が支配的な英国において中道左派労働者階級の大衆文化を、やや様式化された形においてではあったが、非常に強力に表現していた。ピーク時の1967年には1日の発行部数が前例のない525万部に達したこともある。これは、どのライバル紙も近づいたことがないだけでなく、以降もまず近づくことはないだろうと思われる数字だ。最終的には、20世紀の終わりにルパート・マードック(Rupert Murdoch)の『サン(Sun)』に追い越されることとなったが、『デイリー・ミラー』が開拓したタブロイド報道は今も広く模倣されており、同紙自体も右派・EU懐疑派が多勢を占めるイギリス大衆ジャーナリズムにあって他紙とは一線を画す特徴的な勢力として存続している。

デイリー・ミラー創刊号(1903年11月2日)

デイリー・ミラー創刊号(1903年11月2日)
"The Daily Mirror." Daily Mirror, 2 Nov. 1903, p. 3. Mirror Historical Archive, 1903-2000

 

創 刊

『ミラー』は、1903年11月、アルフレッド・ハームズワース(Alfred Harmsworth, 1865-1922)によって創刊された。アイルランド生まれの英国人実業家だったハームズワースは、雑誌、出版部門において15年に及ぶ経験を持ち、1896年の『デイリー・メール』創刊により、イギリスの一般大衆向けジャーナリズムに変革をもたらした人物である。

ノースクリフ子爵アルフレッド・ハームズワース(1959年6月25日号)

ノースクリフ子爵アルフレッド・ハームズワース(1959年6月25日号)
"This Man Found out That People Could Read." Daily Mirror, 25 June 1959, p. 11. Mirror Historical Archive, 1903-2000

 

『メール』は、人々の興味をそそる記事満載の簡潔で気の利いたジャーナリズムをわずか半ペニーで提供し、ニュースに飢えた下層中流階級の読者が大勢存在することを証明した。この新しいタイプの朝刊紙はライバル紙をあっという間に追い抜き、発行部数が世紀の変わり目までに1日100万部に達するほどであった。これほどの規模で販売すれば模倣されないはずがなく、アーサー・ピアソン(Arthur Pearson)が1900年に創刊した『デイリー・エクスプレス(Daily Express)』などが後に続いた。ハームズワースも、他紙がこの市場に参入する前に自ら別の日刊紙を創刊したいと考えていたが、『メール』とは差別化する必要性があることに気づいていた。女性購読者の心をつかんでいた『メール』に後押しされ、同種のフランス紙、『ラ・フロンド(La Fronde)』の成功に勇気づけられたこともあり、当初、『メール』で女性コラムの編集を担当していた、メアリー・ハワース(Mary Howarth)編集長の下、女性による女性のための新聞として『ミラー』を創刊することにした。

デイリー・ミラー創刊号よりエイドリアン・ロスの献詩および編集長メアリー・ハワースの論説

創刊号より、エイドリアン・ロスの献詩および編集長メアリー・ハワースの論説
"Dedication." Daily Mirror, 2 Nov. 1903, p. 10. Mirror Historical Archive, 1903-2000

 

しかし、同紙は大失敗となり、最終的に10万ポンドの損失を計上している。一連の成功に甘んじ、この種の日刊紙を十分に準備、調査していなかったため、今回ばかりは読者が何を求めているのかを読み誤ってしまったのである。犯罪や人情もの、ファッションに関するアドバイス、国内関連の記事を混合した『ミラー』のスタイルは、彼が約束した “レディー” のための “ハイクラス” な新聞にそぐわないものだった。

初期の『デイリー・ミラー』(1903年11月4日号)

初期の『デイリー・ミラー』(1903年11月4日号)
"Children's Fancy Dress, Practical Fashion Notes." Daily Mirror, 4 Nov. 1903, p. 13. Mirror Historical Archive, 1903-2000

 

路線変更

それでも臨機応変なハームズワースは、その優れたビジネスの手腕を駆使して起死回生を実現した。『ミラー』を挿絵入り新聞に変えたのである。図版は19世紀の週刊誌や週刊新聞で顕著に用いられていたが、日刊紙は依然として文字がぎっしりと詰まったコラムで占められており、写真技術の登場を十分に活用しきれていなかった。1891年に初の網点モノクロ写真を印刷した新聞が『デイリー・グラフィック(Daily Graphic)』だったが、同紙の印刷技術では図版入り紙面を1時間に1万部しか印刷できず、編集チームも新興大衆市場にアピールするだけの才覚をほとんど持ち合わせていなかった。ハームズワースは、網点モノクロ写真の高速輪転印刷を可能にする新技術にチャンスを見いだし、これを活用して男女双方をターゲットにしつつ、『メール』とは違う魅力を持つ近代的な図版入り日刊紙を発行する。

『デイリー・イラストレイテッド・ミラー』(1904年2月3日号)

『デイリー・イラストレイテッド・ミラー』(1904年2月4日号)
"Mr. Winston Churchill Gets His Way." Daily Mirror, 4 Feb. 1904, p. [1]. Mirror Historical Archive, 1903-2000


一時期、『デイリー・イラストレイテッド・ミラー(Daily Illustrated Mirror)』と名を変えて発行された同紙は、『メール』や『エクスプレス』以上に人々の興味をそそるストーリーやくだけた内容の特集記事を優先させていた。とりわけ一番の売りは先駆的な写真技術にあり、例えば亡くなったばかりのエドワード7世を捉えた有名な写真を始めとする劇的瞬間を報じることによって『メール』を超える発行部数を達成している。とは言え、その変わったタブロイド判型と、華麗な貴婦人に偏った写真によって、保守的な論客からは新聞というよりもファッション誌であり、まともに受け止められない “無教養” で “女性的な” 出版物というレッテルを貼られてしまう。ただ、このような見下され方をしても、ビジネスチャンスに気づく他社の目がごまかされることはなく、1908年にはエドワード・フルトン(Edward Hulton)がライバル紙『デイリー・スケッチ(Daily Sketch)』を創刊している。

臨終のエドワード7世(1910年5月16日号)

臨終のエドワード7世(1910年5月16日号)
"Edward the Peacemaker at Peace: the Late King Photographed on His Death-Bed at Buckingham Palace." Daily Mirror, 16 May 1910, p. [1]. Mirror Historical Archive, 1903-2000


一方、1905年にノースクリフ卿(Lord Northcliffe)の爵位を授かったアルフレッド・ハームズワースは、『オブザーバー』と『タイムズ』を買収し、その新聞帝国を拡大させるなか、『ミラー』への関心が薄れていくのだった。1914年にはその所有権をロザミア卿こと弟のハロルド(Lord Rothermere, Harold Harmsworth)に譲っている。ロザミア卿は、財務に関しては有能だったが、兄のようなジャーナリズムに関する洞察力を持ち合わせていなかった。そして彼の政治観が右傾化していくにつれ、同紙は暗い時代に突入していく。

ロザミア子爵ハロルド・ハームズワース(1916年11月11日号)

ロザミア子爵ハロルド・ハームズワース(1916年11月11日号)
"The Truth about Mr. Churchill." Daily Mirror, 11 Nov. 1916, p. [1]. Mirror Historical Archive, 1903-2000

 

後 退

第一次世界大戦後、『ミラー』は、競争がますます激化する大衆市場でライバル紙に徐々に水をあけられるようになっていた。他紙が写真を取り入れ始めるにつれて『ミラー』の新鮮さが失われていっただけでなく、右寄りの人気日刊他紙との違いを明確にする特徴的な編集の個性が欠如していたのである。その発行部数は、1934年までに『デイリー・エクスプレス』のかろうじて3分の1に相当する72万部にまで落ち込んでいた上、ロザミアが一時的にとはいえ、イギリスファシスト連合(British Union of Fascists)を支持するように同紙の編集方針を変えてしまい物議を醸していた。当時、イングランド南部の中産階級の女性が購読者の中核となっていた同紙は、労働者階級の家庭において主要ライバル紙すべてに一層引き離されてしまう。

ハイドパークで行われたイギリスファシスト連合の集会(1934年9月10日号)

ハイドパークで行われたイギリスファシスト連合の集会(1934年9月10日号)
"100,000 'Keep the Peace' in Hyde Park." Daily Mirror, 10 Sept. 1934. Mirror Historical Archive, 1903-2000


スタッフの刷新により新鮮なアイデアが注入され、最終的に『ミラー』の新たな方向性が示されたのは、この最悪の時期だった。再変革の中心となったのは、30年前に漫画家として同紙に加わり、1934年に編集長にまで昇格したハリー・ガイ・バーソロミュー(Harry Guy Bartholomew)、通称 “バート” である。店員の息子で初等教育しか受けていないバーソロミューは、そのビジュアルセンスと技術的な知識を頼りにジャーナリズムの世界で頭角をあらわしてきた。自身に格調ある文章の素養がないことを気にかけ、上流社会に対しては根深い疑念を抱き、仰々しさや高尚気取りを嫌悪していた彼は、ノースクリフのおいで同紙取締役会の主要役員を務めるセシル・キング(Cecil King)の支持を取り付けたうえで、すぐさま『ミラー』のスタイルと内容の大幅な刷新に取りかかった。

ハリー・ガイ・バーソロミュー(1976年11月4日号)

ハリー・ガイ・バーソロミュー(1976年11月4日号)
Wilberforce, Charles. "Paper Tigers." Daily Mirror, 4 Nov. 1976, p. 7. Mirror Historical Archive, 1903-2000

 

成功に向けての刷新

バーソロミューはアメリカの広告代理店J・ウォルター・トンプソン(J. Walter Thompson)のアドバイスを受けて、『ニューヨーク・デイリー・ニュース』など成功を収めているアメリカのタブロイド紙に多大な影響を受けた、新しい編集様式を創出している。新様式では、黒い肉太の活字や太字ブロック体の見出しが積極的に活用され、文章がより口語的に、センセーションの追求がより顕著となり、性的コンテンツの露骨さが増していった。この編集上の刷新をさらに勢いづけたのが、1935年にあった大量の新規採用である。例えば、広告業界から転職したバジル・ニコルソン(Basil Nicholson)、ニコルソンの補佐として特集部に加わったウェールズ人の若きジャーナリスト、ヒュー・カドリップ(Hugh Cudlipp)、パンチの効いたスポーツ記事を提供したピーター・ウィルソン(Peter Wilson)、J・ウォルター・トンプソンの元コピーライターで人気コラムニスト “カッサンドラ(Cassandra)” となったウィリアム・コナー(William Connor)などがいた。

カッサンドラが提供したのは、不平等、社会の硬直、浅はかな伝統主義を猛烈に非難する、研ぎ澄まされた、政治色の強い論説だった。彼は古い急進ポピュリズムの伝統を受け継ぎながら、ターゲットとなる労働者階級に届く現代風の語り口で、政治的、社会的エリートのよそよそしさ、身勝手さ、無神経さに執拗に焦点を合わせていた。

カッサンドラ「今朝、絞首刑となる女性」(1955年7月13日号)

カッサンドラ「今朝、絞首刑となる女性」(1955年7月13日号)
Cassandra. "The Woman Who Hangs This Morning." Daily Mirror, 13 July 1955, p. [1]. Mirror Historical Archive, 1903-2000


投書欄の “ライブ・レター(Live Letters)” コラムは拡大され、適度に庶民的な言葉を使って一般読者の関心事にスペースを割いた。ピンナップは大胆さを増し、編集者が選ぶ写真は肌の露出が多めで性的魅力にあふれていた。アーティストのノーマン・ペット(Norman Pett)が描いた連載漫画 “ジェーン(Jane)” は、純真な “今時の若い女性” の諷刺として1932年12月にスタートしたが、1930年代後半になると主人公とその女友達が何かにつけて服を脱ぐ艶っぽい内容に変わっていった。第二次大戦中になり大胆にも胸をあらわにし始めた “ジェーン” は、軍人に最も人気があるピンナップの1つ、そして、『ミラー』ブランドの中心的な要素の1つとなっていた。

投書欄ライブ・レターズ(1953年2月13日)

投書欄ライブ・レターズ(1953年2月13日)
"Live Letters." Daily Mirror, 13 Feb. 1953, p. 12. Mirror Historical Archive, 1903-2000

ピンナップガール(1940年4月5日号)

ピンナップガールの例(1940年4月5日号)
"Oh, Baby!" Daily Mirror, 5 Apr. 1940, p. 5. Mirror Historical Archive, 1903-2000

「ジェーン」(1939年1月18日号)

「ジェーン」(1939年1月18日号)
"Jane." Daily Mirror, 18 Jan. 1939, p. 7. Mirror Historical Archive, 1903-2000


スポーツ、映画、大衆芸能が幅広く取り上げられた一方で、ワーキングクラス文化の感傷的な側面はロマンチックで心温まるストーリー、赤ちゃんや動物の写真によって満たされた。タブロイド記事を巧みなバランスで寄せ集めた『ミラー』は、ほぼすべての人の好みを満足させる紙面に仕上がっていたのである。結果として生まれたのがイギリスの日刊紙市場の新たなスタイル、すなわち、労働者階級の読者にぴたりと照準を合わせ、アメリカ流ビジネスから吸収したノウハウと革新志向の編集チームが持つ民主的な嗅覚でノースクリフの大衆紙モデルを更新、刷新し、派手に大衆受けを狙ったタブロイド紙だった。売上は劇的に増加し始める。

『ミラー』の愛国心に富みながらも階級を意識した編集戦略は “民衆の戦争” の風潮と完璧に重なり、官僚主義の非効率性と特権に対して大衆が抱いていた欲求不満を代弁する貴重な存在になっていった。また、『ミラー』は軍隊の新聞として広く捉えられていた。1941年秋に実施された新聞消費調査によると、軍人の30%以上が愛読者だった。戦時中は新聞用紙の配給制が障壁となり急速に発行部数を伸ばすことはできなかったものの、1949年には『エクスプレス』に取って代わりイギリスで最も人気のある新聞に上り詰めている。

“勝利とヨーロッパの平和”と書かれた月桂冠を手渡す負傷兵「ほらよ、もう失くすなよ」(1945年5月8日号)

“勝利とヨーロッパの平和”と書かれた札のついた月桂冠を差し出す負傷帰還兵「ほらよ、もう失くすなよ」(1945年5月8日号)
"Here You Are-Don't Lose It Again." Daily Mirror, 8 May 1945, p. 2. Mirror Historical Archive, 1903-2000

1951年までに、一日の売上部数は450万部を超え、これは『エクスプレス』より約35万部多く、後続のライバル2紙、『メール』(220万部)と『デイリー・ヘラルド』(210万部)の合計をも上回った。ただ、『ミラー』の成功がただちに英国新聞タブロイド化の波を起こしたわけではない。『エクスプレス』、『メール』、『ヘラルド』、『ニュース・クロニクル』はいずれも真剣味と品位において上回ると考えられていた大判形式を維持したがったのである。従って『ミラー』は称賛と軽蔑を同時にうける騒々しい大衆文化の発信源という唯一無二の存在であり続けることができた。

“怪物” ― 水爆実験についての世論を問う(1954年4月2日号)

“怪物” ― 水爆実験についての世論を問う(1954年4月2日号)
"The Monster." Daily Mirror, 2 Apr. 1954, p. [1]. Mirror Historical Archive, 1903-2000

英国、EEC加盟申請へ(1961年7月28日号)

英国、EEC加盟申請へ(1961年7月28日号)
Greig, William. "Britain's Decision: We Join Europe." Daily Mirror, 28 July 1961, p. [1]. Mirror Historical Archive, 1903-2000


見下されていることを十分に意識していた同紙は、そのアプローチの弁明と正当性の主張を繰り返している。一例を挙げると、1949年に編集長シルベスター・ボラム(Sylvester Bolam)が執筆した有名な “公共サービスとしての扇情主義” 声明である。

「『デイリー・ミラー』は、扇情的な新聞だ。その点については弁解しない。我々は、今日の大衆読者と民主的責任に必要かつ有益な公共サービスとして、ニュースと見解、特に重要なニュースと見解については扇情的に扱うべきであると確信している(…)扇情主義は真実の歪曲を意味しない。読者の心に強烈なインパクトを与えるために、出来事を鮮明かつ劇的に表現することを意味する。大きな見出し、勢いのある文章、慣れ親しんだ日常言語への簡素化、漫画や写真による図版の幅広い使用を意味するのだ。」1

“公共サービスとしての扇情主義” 声明(1949年7月30日号)

“公共サービスとしての扇情主義” 声明(1949年7月30日号)
"Alive and Kicking." Daily Mirror, 30 July 1949, p. [1]. Mirror Historical Archive, 1903-2000

 

ボラムにとって扇情主義は民主主義に必要不可欠なもので、大衆の読者に情報を提供し、公的領域への参加を可能にする唯一の方法だったのである。ボラムは、「我々が直面しているすべての大きな問題を、日々の仕事に忙殺される一般人に理解してもらおうと思ったら、事実を強烈に、繰り返し突きつけるしかない」と主張し、こう締めくくっている。扇情的な扱いこそが「その答えである。他紙の謹直な “上級” 読者が好むと好まざるとに関わらず」。第二次大戦後も、同紙は労働党支持を明確に訴えるべく “扇情的な扱い” を用いつつ、同党の方針に盲従はせず、急進左派には時に懐疑的に、しかし強力な改革派、反保守党の声を生み出していた。

“この野蛮な無秩序” ― ベトナム戦争が拡大する中、訪米するウィルソン首相に向けたメッセージ(1965年12月15日号)

“この野蛮な無秩序” ― ベトナム戦争が拡大する中、訪米するウィルソン首相に向けた論説(1965年12月15日号)
"This Barbarous Mess." Daily Mirror, 15 Dec. 1965, pp. [1]+. Mirror Historical Archive, 1903-2000

 

難 局

『ミラー』の成功は1960年代を通して続き、その発行部数は奇跡の500万部を超えることもあった。イギリスの大衆出版文化で最も影響力のある体現者に上り詰めたのである。1952年からセシル・キング会長の下で編集長を務めたヒュー・カドリップがそのジャーナリズムを主導していた。大衆市場にもはや挑戦者はいないと確信し、払われて当然と考える敬意を切望してやまないカドリップとキングは、1960年代に『ミラー』を徐々に高級市場に浸透させようとするのだった。

『ミラー』が圧倒的に売れるのは当然(1967年8月28日号)

『ミラー』が圧倒的に売れるのは当然(1967年8月28日号)
"'No Wonder the Mirror Out-Sells the Field." Daily Mirror, 28 Aug. 1967, pp. [1]+. Mirror Historical Archive, 1903-2000

 

セシル・キング会長とヒュー・カドリップ編集長(1998年5月18日号)

セシル・キング会長とヒュー・カドリップ編集長(1998年5月18日号)
Molloy, Mike, editor. "The Man Who Made the Mirror." Daily Mirror, 18 May 1998, pp. 12+. Mirror Historical Archive, 1903-2000


労働者階級の読者が教養を身につけ、裕福になってきていると信じ、1962年、『ミラー』は新セクション “ミラースコープ(Mirrorscope)” を導入する。前日のニュースについて2ページにわたり、生真面目で博識なコメントを掲載したのである。この新路線をさらに推し進めるために、1964年、ミラー・グループは3年前に買収していた『デイリー・ヘラルド』を『サン』と改名して再創刊しようとした。

ミラースコープ:ローデシア紛争について(1968年3月8日号)

ミラースコープ:ローデシア紛争について(1968年3月8日号)
Davidson, Basil. "Mirrorscope." Daily Mirror, 8 Mar. 1968, p. 15. Mirror Historical Archive, 1903-2000


しかし『ミラー』はすでに全盛期の終盤にさしかかっており、陳腐化してきていた形式を刷新できずにいた。さらにキングの政治的野心がビジネスマンとしての感覚を狂わせはじめていた。驚いたことに1968年5月、キングは「もうたくさんだ(Enough is Enough)」という見出しの1面社説を執筆している。戦間期によく行われていた新聞オーナーによる報道介入の悪習を彷彿させるその社説は、現政府を「先見性、行政能力、政治的感受性、高潔性が欠如している」と非難し、ウィルソンの辞任を要求したのだ。2  しかし、実際に辞任を余儀なくされたのはキングの方だった。『ミラー』をプラットフォームとして利用し、このように痛烈な個人攻撃を展開することは、1960年代のメディア環境においては不適切と見なされていたのである。『ミラー』は政治的バランス感覚を失いかけ、読者離れの危機に瀕しているようだった。

セシル・キング「もうたくさんだ」(1968年5月10日号)

セシル・キング「もうたくさんだ」(1968年5月10日号)
King, Cecil H. "Enough Is Enough." Daily Mirror, 10 May 1968, pp. [1]+. Mirror Historical Archive, 1903-2000

さらに、親会社IPCの会長職を引き継いだカドリップが致命的な決断を下してしまう。不振に苦しむ『サン』を、『ニュース・オブ・ザ・ワールド』の買収によってイギリス新聞業界に参入したばかりのオーストラリア人、ルパート・マードックに売却してしまったのである。

『ミラー』で編集補佐をしていたラリー・ラム(Larry Lamb)を編集者に迎えて再創刊された『サン』は、寛容な時代向けにタブロイド新聞を更新しようとする一方、ライバル紙からアイデアを拝借することに関して実に無節操だった。例えば、『サン』がスローガンとして掲げた “民衆とともに前進(Forward with the People)” は、『ミラー』が1945年に採用し、つい先頃まで使っていたものである。また、『ミラー』の “カッサンドラ” コラム執筆者の息子、ロバート・コナー(Robert Connor)は厚かましくも “カッサンドラの息子(Son of Cassandra)” というコラムを任せられている。投書欄には、『ミラー』の“ライブ・レター(Live Letters)” に勝るべく、“最もライブなレター(Liveliest Letters)” というタイトルがつけられた。その上『ミラー』の人気漫画 “ガース(Garth)” まで模倣して、 “スカース(Scarth)” という名の女性を主人公に据えた『サン』バージョンも掲載していた。また、1930年代半ばの『ミラー』と同様、性的内容の限界も押し広げていった。当初は3ページ目ではなかったにせよ、第2号からトップレス・モデルを掲載した『サン』は、異性愛者の家庭向け新聞という枠組み内にはとどまりつつ、性に寛大な快楽主義の新聞の路線を追求した。大衆市場の支配的勢力として君臨してきた『ミラー』だったが、特に1973年にヒュー・カドリップが引退して以降はインスピレーションの主を失ったことで、対抗策が打てず苦戦を強いられてしまう。例えば一時的にトップレス・モデルを掲載するなど『サン』を模倣してみたり、独自の何かを提供しようと右往左往していたが、結局のところその魅力は過去の階級意識に基づく言説に根ざしていたようである。

政治的にも、1979年にマーガレット・サッチャーのもとで保守党が息を吹き返し、ジェームズ・キャラハン率いる労働党を政権の座から引きずり下ろすと、『ミラー』の穏健な労働党支持は疲弊していった。1978年に『ミラー』に代わり、イギリスで最も人気のある新聞の座を勝ち取った『サン』が “マギー” ことサッチャーを全面的に支持したのに対し、『ミラー』はフォークランド戦争(1982年)や炭鉱労働者ストライキ(1984-85年)といった出来事について一貫した反応を見いだせずにいたのである。さらに1984年、移り気なビジネスマンのロバート・マクスウェル(Robert Maxwell)によって買収され、その売名目的の気まぐれな方針に振り回されたことで不安定さに拍車がかかってしまう。1991年にマクスウェルが巨額の負債を残して急逝するとさらなる迷走の時期が続いた。1999年、地方新聞社のトリニティ(Trinity)に買収され、“トリニティ・ミラー(Trinity Mirror)” となった新オーナーのもとでようやくある程度の安定がもたらされた。2018年に同社は元ライバル紙の『デイリー・エクスプレス』と『デイリー・スター(Daily Star)』を買収し、その後リーチ(Reach plc)と改称している。

サッチャー夫人が当選したら貴方の生活はどうなる?(総選挙前日, 1979年5月2日号)

サッチャー夫人が首相となったら貴方の生活はどうなる?(総選挙前日, 1979年5月2日号)
Lancaster, Terence, editor. "What Would Your Life Be Like .. Under Mrs Thatcher's Broomstick?" Daily Mirror, 2 May 1979. Mirror Historical Archive, 1903-2000

「これは戦争だ」(フォークランド紛争, 1982年4月26日号)

「これは戦争だ」(フォークランド紛争, 1982年4月26日号)
"It's War." Daily Mirror, 26 Apr. 1982, p. [1]. Mirror Historical Archive, 1903-2000

 

イギリス文化の要

その後の『ミラー』は、縮小する新聞市場において『サン』の次席に甘んじ、復活する『デイリー・メール』にも脅かされて苦戦を強いられている。しかし、1945年以降の中道左派路線に忠実であり続け、(選挙のない時期には指導者を声高に批判することはあっても)総選挙では一貫して労働党を支持し、2003年にはピアーズ・モーガン(Piers Morgan)編集長の下で声高にイラク戦争に反対している。また、2016年に実施されたEU離脱の是非を問う国民投票では、他の国内大衆向け日刊紙とは一線を画して、“残留” を支持している。2019年時点の発行部数は、ピーク時の約10分の1にあたる50万部にまで落ち込んでおり、その長期的な存続の可能性は依然として不透明である。それでも『ミラー』は、イギリス大衆文化の重要な系譜を代表し続けている。

労働党の若いやり手議員たち(1990年10月2日号)

労働党の若いやり手議員たち(1990年10月2日号)
Campbell, Alastair, et al. "The Young Guns Go for It." Daily Mirror, 2 Oct. 1990, pp. 4+. Mirror Historical Archive, 1903-2000

 

『ミラー』歴史アーカイブのホーム画面
『ミラー』歴史アーカイブのホーム画面

 

脚注:


1 Daily Mirror, 30 July 1949, p. 1.

2 Daily Mirror, 10 May 1968, p. 1.

無断転載を禁じます。

引用書式の例:ビンガム、エイドリアン(センゲージラーニング株式会社 訳)「『デイリー・ミラー』の歴史」 Mirror Historical Archive, 1903-2000. Cengage Learning KK. 2023

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お断わり

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