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イギリスがアヘン戦争中にいわゆる “不毛な島”(barren island)香港島を獲得した1841年1月から、1949年10月の中華人民共和国建国から程無い1951年までの香港の歴史を理解する上で、CO 129以上に役立つ公文書コレクションは存在しない。主として香港総督とロンドンの植民地省との間で交わされた書簡で構成される同文書群は、香港の歴史を1世紀以上にわたり網羅しており、大きく4つの時代に分けることができる。いずれの時代も、イギリス唯一の中国植民地の発展にとって、また、英中関係の進化にとっても極めて重要であった。それは、草創期(1840年代初め~19世紀後期)に始まり、中国の改革と革命運動における香港の役割(19世紀後期~20世紀初め)、両大戦間期(1920年代~1930年代)、そして、日本の占領下(1941年~1945年)を経て、1945年夏にイギリスに復帰した戦後の時代である。本エッセイでは、この4時代のうち、最初の3時代に焦点を当てる。

 

1.草創期

それは先行き不透明な時代であった。植民地時代初期の香港がいかに機能し、また、していなかったのかについて、数々のCO 129ファイルが明らかにしてくれる。  その素晴らしい港と豊富で安価な華人労働力にもかかわらず、植民地開拓者が思い描いていたような偉大な “市場”(mart)あるいは “交易の中心地”(emporium)への成長は遅々として進まず、病気と犯罪がはびこっていた。1853年6月にサミュエル・ジョージ・ボナム(Samuel George Bonham)総督は、海賊行為が横行し、自らの政府単独では鎮圧できないと不満を漏らす一方で、通商の見通しは「ゆっくりとではあるが、確実に永続的な性質を帯びてきている」とも記している。2  広州の清朝官吏がひどく驚いたことに、この若き植民地の構築に一役買ったのは、あらゆる職種、社会的地位の華人による協力だった。1846年4月、ジョン・フランシス・デイビス(John Francis Davis)総督は、ウィリアム・グラッドストン(William Gladstone)植民地大臣に、香港における民間、公共事業の構築は「いつでも動員できる中国人の安価で効率的な労働力なくして実現できなかった。」3 と説明している。また、華人との協力が、必ずしも植民地政府が好ましく思わない別のかたちで現れることもあった。華人コミュニティーと欧州諸国コミュニティーの指導者は、例えば1848年2月、地代の支払いについて植民地政府に請願したときのように、時折手を組むことがあったのである。4

世界中の国が(中国という)「great mart」へのアクセスを等しく与えられるべきである、と記した外務大臣アバディーン卿による文書(1844年2月28日) Foreign Office: 1844. 1844. MS War and Colonial Department and Colonial Office: Hong Kong, Original Correspondence CO 129/8. The National Archives (Kew, United Kingdom). China and the Modern World
世界中の国が(中国という)「great mart」へのアクセスを等しく与えられるべきである、と記した外務大臣アバディーン卿による文書(1844年2月28日)
Foreign Office: 1844. 1844. MS War and Colonial Department and Colonial Office: Hong Kong, Original Correspondence CO 129/8. The National Archives (Kew, United Kingdom). China and the Modern World.

「いつでも動員できる中国人の安価で効率的な労働力」(1846年4月15日) Despatches: 1846 Jan.-June. January-June, 1846. MS War and Colonial Department and Colonial Office: Hong Kong, Original Correspondence CO 129/16. The National Archives (Kew, United Kingdom). China and the Modern World
「いつでも動員できる中国人の安価で効率的な労働力」(1846年4月15日)
Despatches: 1846 Jan.-June. January-June, 1846. MS War and Colonial Department and Colonial Office: Hong Kong, Original Correspondence CO 129/16. The National Archives (Kew, United Kingdom). China and the Modern World.

 

この時代、香港経済の二本柱は、アヘン貿易と “苦力(クーリー)” 貿易であった。アヘン戦争中、そして揺籃期の植民地構築において、公売を通して、また、時にはイギリスに協力した華人への褒賞として、アヘン、その他商品の独占権がいかに獲得され、土地区画がいかに割り当てられたのかを学ぶことができる。この恩恵を受けた一人が、盧阿桂(Loo Aqui)という名の男性で、海賊行為と外国船への物資供給で名を成し、後に、ローワー・バザール(Lower Bazaar)に広大かつ貴重な土地を褒賞として受け取っている。最終的に、この地には多くの華人が住み着くようになった。5  また、文書群には、当時の統治や司法行政に関する重要な詳細も包含されている。これには、1840年代半ばから1860年代初期までと短命に終わった、デイビス総督の “先住華人保安官”(native Chinese peace officers)計画、1860年代半ばに犯罪率の引き下げと囚人数の低減を目的として実施されたリチャード・マクドネル(Richard MacDonnell)総督の極めて過酷な “偉大な実験”(great experiment)、さらには、その後継者であるジョン・ポープ・ヘネシー(John Pope Hennessy)が手がけた、例えば1880年、華人として初めて伍才(Ng Choy, 伍廷芳 Wu Tingfang)を立法局議員に指名するなど、香港刑罰制度の近代化や人種差別と隔離の抑制にむけた取り組みが含まれる。


伍才(Ng Choy)を立法局議員に推薦するヘネシー総督の文書(1880年1月19日)
Despatches: 1880 Jan.-Apr. January-April, 1880. MS War and Colonial Department and Colonial Office: Hong Kong, Original Correspondence CO 129/187. The National Archives (Kew, United Kingdom). China and the Modern World.

 

また、これらの資料は、地元の華人エリートの台頭を理解する上でも役立つ。彼らは、文武廟(Man Mo Temple)、團防局(District Watch Force)、東華醫院(Tung Wah Hospital)、保良局(Po Leung Kuk)といったボランティア団体や、華商會所(Chinese Club)、中華游樂會(Chinese Recreation Club)といった社交団体を設立し6、香港華人コミュニティーにおける “重要で影響力を持つ階層” と自負するようになっていった。例えば、1901年3月にはヘンリー・ブレイク(Henry Blake)総督に自分たちの子供専用の学校を特別に設立するよう求めている。7  このような華人富裕層の多くが香港を永住の地と考えるようになったことは、1911年12月、香港に “永住する” 華人用の墓地を創設するようフレデリック・ルガード(Frederick Lugard)総督に請願したことからも明らかである。ルガードの後任、ヘンリー・メイ(Henry May)はこの要請を喜んで受け入れ、「これによって、植民地との一体感が創出され、自らを植民地の一員と捉える層を特遇することになる」としている。8

中国人「上流階級」の子供向けの英語学校の設立を求める嘆願書(1901年3月2日) Despatches: 1901 Aug.-Sept. August-September, 1901. TS War and Colonial Department and Colonial Office: Hong Kong, Original Correspondence CO 129/306. The National Archives (Kew, United Kingdom). China and the Modern World
中国人「上流階級」の子供向けの英語学校の設立を求める嘆願書(1901年3月2日)
Despatches: 1901 Aug.-Sept. August-September, 1901. TS War and Colonial Department and Colonial Office: Hong Kong, Original Correspondence CO 129/306. The National Archives (Kew, United Kingdom). China and the Modern World.

 

とは言え、富と権力が平等をもたらすことはなかった。例えば19世紀後期と20世紀初期の居住条例に見られるように、CO 129の書簡群は香港における人種差別や隔離も明らかにしている。1904年5月には丘の上に位置する高級住宅街 “ピーク”(Peak)の欧州系不動産所有者らが、その地区を “非華人住民専用の住宅街” に指定するよう政府に請願している。9  この請願が新条例につながり、いかなる所有者、借用者も、土地や建物の賃貸を「非華人以外の者に対して行ってはならず、当該の土地または建物に非華人以外の居住を認めてはならない」と定められた。しかし、1917年9月、フランシス・ヘンリー・メイ(Francis Henry May)総督は、同条例において “華人” が定義されていなかったため、買弁の何東(Robert Ho Tung)のような裕福な欧亜混血人が網の目を潜れる結果になってしまったとウォルター・ロング(Walter Long)植民地大臣に説明している。10  1918年に可決された新条例によって、ピークは再び欧州人専用となり、この制限は第二次世界大戦後まで続いた。11

欧州人専用居住地「ピーク」の地図(1904年5月6日) Despatches: 1904 Jan.-May. January-May, 1904. TS War and Colonial Department and Colonial Office: Hong Kong, Original Correspondence CO 129/322. The National Archives (Kew, United Kingdom). China and the Modern World
欧州人専用居住地「ピーク」の地図(1904年5月6日)
Despatches: 1904 Jan.-May. January-May, 1904. TS War and Colonial Department and Colonial Office: Hong Kong, Original Correspondence CO 129/322. The National Archives (Kew, United Kingdom). China and the Modern World.

 

2.中国における革命と改革

植民地香港は、19世紀後期に始まった中国のナショナリズム運動においても重要な役割を果たした。12  中国がまだ満州人に支配されていた清朝最後の数十年、孫文(Sun Yatsen)、その他の革命家や改革家の活動を促進させる上で一役買っていたのである。革命運動を支持する現地当局者も一部いたとはいえ、CO 129の書簡群は、香港植民地を政府転覆の拠点にしてはならないという、香港・イギリス両政府の懸念を明らかにしている。例えば、本文書群に収録される1896年3月付けのウィリアム・ロビンソン(William Robinson)総督の命令には、孫文の香港滞在は「きわめて望ましくない」ことであり、中国政府との関係を脅かすとの理由から、向こう5年間、香港から追放すると記されている。13  一方、革命よりも改革を望み、共和制よりも立憲君主制を好んだ康有為(Kang Youwei)による戊戌の変法が未遂に終わり、1898年の夏に香港に亡命した際には、植民地政府によって保護されている。ただ彼の一件についても、一部高官の間では中国政府と問題を引き起こしかねないと懸念の声があがっていた。14

孫文を香港から追放する旨が書かれたロビンソン総督の文書(1896年3月11日) Despatches: 1896 Jan.-Apr. January-April, 1896. MS War and Colonial Department and Colonial Office: Hong Kong, Original Correspondence CO 129/271. The National Archives (Kew, United Kingdom). China and the Modern World
孫文を香港から追放する旨が書かれたロビンソン総督の文書(1896年3月11日)
Despatches: 1896 Jan.-Apr. January-April, 1896. MS War and Colonial Department and Colonial Office: Hong Kong, Original Correspondence CO 129/271. The National Archives (Kew, United Kingdom). China and the Modern World.


康有為の中国本土脱出についての報告(1898年10月8日) Despatches: 1898 Sept.-Oct. September-October, 1898. MS War and Colonial Department and Colonial Office: Hong Kong, Original Correspondence CO 129/285. The National Archives (Kew, United Kingdom). China and the Modern World
康有為の中国本土脱出についての報告(1898年10月8日)
Despatches: 1898 Sept.-Oct. September-October, 1898. MS War and Colonial Department and Colonial Office: Hong Kong, Original Correspondence CO 129/285. The National Archives (Kew, United Kingdom). China and the Modern World.

 

中国ナショナリズム運動の地域的側面は、法廷弁護士、投資家、医師、議員であり、香港華人コミュニティーの指導者でもあった何啓(Ho Kai)の生涯に特に顕著に表われている。15  世紀の変わり目に香港や、上海を初めとする条約港に在住していた改革派の一員だった何啓は、孫文の政治思想を形作った人物と評されることが多々ある。しかし、孫とは異なり、中国は共和制ではなく、イギリスのような立憲君主制を目指すべきで、香港が中国にとっての政治的・通商的モデルになりうると何は考えていた。旧友の同僚議員がかつて説明したように、何は「その生涯を通して、革命ではなく、改革を支持していた。」16  1900年の反乱が失敗に終わってからは革命運動への関わりも減っていったが、それでも、生涯を通して中国の国益に力を尽くしていた。

 

3.両大戦間期

両大戦間の香港は時に、発展から取り残された植民地と評されることがある。しかし、CO 129の文書群には、この間、それまで以上に大英帝国と中国双方の歴史に密接に取り込まれていった香港の様子が示されている。例えば、1920年代と1930年代に物議を醸した妹仔(ムイツァイ mui tsai、少女奴隷)問題は、イギリスの植民地政策において最も激しく、長く続いた論争の1つとなった。17  妹仔制度が奴隷制に当たるのではないかという疑念は、1879年に香港のジョン・スメール(John Smale)主席大法官が子供を使用人として売買する慣行について調査委員会を設置するようにと命じた時にもちあがった。18  しかし、宣教師で公務員だったエルネスト・J・アイテル(Ernest J. Eitel)をはじめとする “中国通” が、そうした使用人が奴隷に当たるとするスメールの主張を論駁している。19  妹仔制度が性的虐待を助長する奴隷制の一種であると考える論者も一部にはいたが、華人コミュニティーの指導者らは逆にこの制度が少女たちを売春から救い、彼女らは家族の一員として扱われていると反論したのである。20  ヘネシー(Hennessy)総督もやがて後者の主張に同意し、これが香港とロンドン双方における公式見解となった。1918年8月にメイ総督は、無給労働者は、奴隷とは「異なる語彙によって規定されている」と主張している。21

香港における奴隷制についての主席大法官の判断について(1880年1月23日) Despatches: 1880 Jan.-Apr. January-April, 1880. MS War and Colonial Department and Colonial Office: Hong Kong, Original Correspondence CO 129/187. The National Archives (Kew, United Kingdom). China and the Modern World
香港における奴隷制についての主席大法官の判断について(1880年1月23日)
Despatches: 1880 Jan.-Apr. January-April, 1880. MS War and Colonial Department and Colonial Office: Hong Kong, Original Correspondence CO 129/187. The National Archives (Kew, United Kingdom). China and the Modern World.

 

しかし1920年代になると、イギリス海軍のヒュー・ヘイズルウッド(Hugh Haslewood)少佐と妻のクララ(Clara)による努力もあって、妹仔についての新たな見解がでてくるのだった。教会の説教でこの慣行のことを知ったヘイズルウッド夫妻は、イギリスの植民地で “児童奴隷制度” を容認する植民地当局を非難する大量の書簡を地元新聞社に送ったのである。22  本資料群からは、妹仔制度を批判するクララと一部華人の信用を失墜させようとする香港政府の動きについて知ることができる(スタッブス総督はクララについて「精神が不安定な人物として広く知られている」などと主張している)。23  1920年7月、エドワード・レジナルド・スタッブス(Edward Reginald Stubbs)総督は、妹仔が不当な扱いを受けている証拠はなく、「中国人が驚くほど子供好きで、子供に優しい人種である」ことは「周知の事実」であると、アルフレッド・ミルナー(Alfred Milner)植民地大臣に説明している。24  ミルナーは、「中国人の家庭生活に西洋の概念を押しつける」のは不可能であり、「実のところ、好ましくない」という見解が植民地当局で多数を占めていると結論づけた。25  スタッブスは、妹仔制度を廃止または修正すれば、「大英帝国において最も忠誠心と順法精神のあるコミュニティーの1つ」との関係を悪化させ、ひいては植民地支配への支持を脆弱にしかねないと不安すら覚えていたのである。26

妹仔制度を揶揄する『ジョン・ブル』誌の記事(1929年3月30日) Mui Tsai System: Suggested Regulations and Possible Abolition: 1929 Jan. 9-May 16. January 9-May 16, 1929. MS War and Colonial Department and Colonial Office: Hong Kong, Original Correspondence CO 129/514/2. The National Archives (Kew, United Kingdom). China and the Modern World
妹仔制度を揶揄する『ジョン・ブル』誌の記事(1929年3月30日)
Mui Tsai System: Suggested Regulations and Possible Abolition: 1929 Jan. 9-May 16. January 9-May 16, 1929. MS War and Colonial Department and Colonial Office: Hong Kong, Original Correspondence CO 129/514/2. The National Archives (Kew, United Kingdom). China and the Modern World.

 

香港政府が海軍本部にヘイズルウッド司令官の異動を要請した後も、夫妻は反妹仔運動をよりいっそう積極的かつ効果的に推し進めていった。劉鑄伯(Lau Chu Pak)議員や何福(Ho Fook)議員を始めとする地元の華人エリートは妹仔制度を維持しようとしたものの、主に華人キリスト教団体や労働組合からの支持を得た反妹仔協会(Anti-Mui Tsai Society)の反対に直面する。27  イギリス議会の議員、本国と香港の宗教指導者、国際的な女性団体や労働者団体、さらには国際連盟からも圧力を受けて、ついに1922年2月、(かつては同制度を擁護していた)ウィンストン・チャーチル(Winston Churchill)植民地大臣は、「これを擁護し続けるつもりはない」とし、「現地にどのような影響が及ぼうと、知ったことではない」と宣言している。28  最終的に妹仔を管理する数本の条例が立法会を通過したが、この慣行は第二次世界大戦後まで残る結果となった。

妹仔制度を擁護しない方針を伝える植民地相チャーチルの文書(1922年2月21日) Offices: (Except Admiralty, Crown Agents and Foreign); Individuals: 1922. 1922. MS War and Colonial Department and Colonial Office: Hong Kong, Original Correspondence CO 129/478. The National Archives (Kew, United Kingdom). China and the Modern World
妹仔制度を擁護しない方針を伝える植民地相チャーチルの文書(1922年2月21日)
Offices: (Except Admiralty, Crown Agents and Foreign); Individuals: 1922. 1922. MS War and Colonial Department and Colonial Office: Hong Kong, Original Correspondence CO 129/478. The National Archives (Kew, United Kingdom). China and the Modern World.

 

両大戦間期は、道路、貯水池の建設のみならず、病院や教員育成大学にいたるまで、イギリスによる公共事業の拡大によって特徴づけられる。これはすべて、大英帝国の新たな理想である “信託”(trusteeship)構築の一貫ではあったが、1917年のロシア革命や1919年の五・四運動を受けて興った華人のナショナリズムと労働者意識の高まりを防ぐ目的もあった。とはいえ、これらはそう簡単に抑圧できる勢力ではなく、1920年代に複数のストライキを引き起こす一因となった。CO 129の文書群には、特に1925-26年の省港大罷工など、これらのストライキに関する非常に貴重な情報が含まれている。29  さらに、同文書群は、香港高官が当初から省港大罷工を指揮したのは広州の過激な扇動者であり、植民地の経済・政治状況とは何ら関係ないと断定していたにもかかわらず、実際には香港にいる欧州人の特権的地位に反発する庶民感情がその勢力の一部を成していたことも明らかにしている。

広東ボイコット:広東政府の敵対行為および推奨される対抗策(1926年2月) Canton Boycott: Hostile Acts of Canton Government and Recommended Action: 1926 Feb. 6-Feb. 16. February 6-16, 1926. TS War and Colonial Department and Colonial Office: Hong Kong, Original Correspondence CO 129/498/4. The National Archives (Kew, United Kingdom). China and the Modern World
広東ボイコット:広東政府の敵対行為および推奨される対抗策(1926年2月)
Canton Boycott: Hostile Acts of Canton Government and Recommended Action: 1926 Feb. 6-Feb. 16. February 6-16, 1926. TS War and Colonial Department and Colonial Office: Hong Kong, Original Correspondence CO 129/498/4. The National Archives (Kew, United Kingdom). China and the Modern World.

 

省港大罷工が香港の長期的な政治、経済の安定に深刻な影響を及ぼすことはなく、このことは、外部からの影響が、中国ナショナリズムを明白な、あるいは、持続可能な反植民地主義に転換させられなかったことを示している。植民地政府は共産主義と労働組合化の成長を食い止めることに成功した。それから数十年たった1967年、中国を飲み込んだ文化大革命の最中に起きた六七暴動の際もそうだったように、香港の多くの人々は、国境の向こう側で起こっていた大混乱や暴力とは対照的な政治的、経済的安定を享受していたのである。CO 129の文書群は、周壽臣(Chow Shouson)、ロバート・コートウォール(羅旭龢、Robert Kotewall)といった地元の華人、欧亜混血人エリートが省港大罷工に立ち向かった努力を明らかにしている。1925年6月の終わりにスタッブス総督は、レオ・エイメリー(Leo Amery)植民地大臣宛の電報で「責任ある華人」がいかに「大きな力添え」となったかを伝えている。30

広州の沙基通りで起こった英仏軍によるデモ隊への発砲事件の現場(1926年6月14日) Offices: Foreign (1926 Dec.); Offices: Post, Home, India, House of Commons, Board of Trade, Treasury, War and Miscellaneous; Individuals: 1926. 1926. MS War and Colonial Department and Colonial Office: Hong Kong, Original Correspondence CO 129/497. The National Archives (Kew, United Kingdom). China and the Modern World
広州の沙基通りで起こった英仏軍によるデモ隊への発砲事件の現場(1926年6月14日)
Offices: Foreign (1926 Dec.); Offices: Post, Home, India, House of Commons, Board of Trade, Treasury, War and Miscellaneous; Individuals: 1926. 1926. MS War and Colonial Department and Colonial Office: Hong Kong, Original Correspondence CO 129/497. The National Archives (Kew, United Kingdom). China and the Modern World.

 

それでも、省港大罷工は、いかに植民地香港の歴史が中国大陸の歴史と絶えず絡み合ってきたのかを実証する出来事だった。また、イギリスの対中政策に関して、外務省、植民地省、香港政府間の緊張を悪化させる結果にもつながっている。外務省はちっぽけな香港よりも中国との関係に重きを置いているのではないかとの懸念が植民地省と香港政府の間で持ち上がることがあった。省港大罷工、その他の中国ナショナリズムの現われの結果、外務省が(1898年にイギリスに租借された)山東省の威海衛、湖北省の漢口、江西省の九江の租借地を手放すことを決めると、次は我が植民地の番かと不安を覚える香港高官も一部いた。31  むろん、これは何十年も先の1997年7月になるまで実現しなかったわけだが、約1世紀前の草創期と同様、この当時は先行き不透明な時代だったのである。

中国の国民感情に照らして香港新界の割譲を求めることは困難であるとする文書(1929年7月12日) Tenure of Kowloon Leased Territories: 1929. 1929. TS War and Colonial Department and Colonial Office: Hong Kong, Original Correspondence CO 129/517/12A. The National Archives (Kew, United Kingdom). China and the Modern World
中国の国民感情に照らして香港新界の割譲を求めることは困難であるとする文書(1929年7月12日)
Tenure of Kowloon Leased Territories: 1929. 1929. TS War and Colonial Department and Colonial Office: Hong Kong, Original Correspondence CO 129/517/12A. The National Archives (Kew, United Kingdom). China and the Modern World.

 

 

中国近現代史シリーズ ホーム画面

中国近現代史シリーズのホーム画面

脚注:

1. 植民地期初期については Jung-fang Tsai, Hong Kong in Chinese History: Community and Social Unrest in the British Colony, 1842-1913 (New York: Columbia University Press, 1993) 第1章および第2章、Christopher Munn, Anglo-China: Chinese People and British Rule in Hong Kong, 1841-1880 (Richmond, Surrey: Curzon Press, 2001; reprint, Hong Kong: Hong Kong University Press, 2008)、John M. Carroll, Edge of Empires: Chinese Elites and British Colonials in Hong Kong (Cambridge, MA: Harvard University Press, 2005; reprint, Hong Kong: Hong Kong University Press, 2007) 第1章および第2章を参照のこと。
2. Bonham to Newcastle, 13 June 1853, CO 129/42。
3. Davis to Gladstone, 15 April 1846, CO 129/16。
4. “Memorial from the European and Chinese Inhabitants in Hong Kong Relative to the Payment of Ground Rents,” 26 February 1848, CO 129/23。
5. Fearon’s report, June 24, 1845, CO 129/12。
6. これらのボランティア団体については Henry J. Lethbridge, Hong Kong: Stability and Change: A Collection of Essays (Hong Kong: Oxford University Press, 1978) 第3章~第5章、Elizabeth Sinn, Power and Charity: The Early History of the Tung Wah Hospital, Hong Kong (Hong Kong: Oxford University Press, 1989)、W. K. Chan, The Making of Hong Society: Three Studies of Class Formation in Early Hong Kong (Oxford: Clarendon Press, 1991) 第3章を参照。
7. Blake to Chamberlain, 24 September 1901, CO 129/306。
8. May to Harcourt, 20 July 1912, CO 129/391。
9. May to Lyttleton, 4 May 1904, CO 129/322 に添付。
10. May to Long, 5 September 1917, CO129/433。
11. John M. Carroll, “The Peak: Residential Segregation in Colonial Hong Kong,” in Bryna Goodman and David Goodman, eds., Twentieth-Century Colonialism and China: Localities, the Everyday, and the World (London: Routledge, 2012), 81-91。
12. 香港と中国ナショナリズムについては Chan Lau Kit-ching, China, Britain and Hong Kong, 1895-1945 (Hong Kong: Chinese University Press, 1990) 第1章および第2章、Ts’ai, Hong Kong in Chinese History 第6章~第9章、K. C. Fok, Lectures on Hong Kong History: Hong Kong’s Role in Modern Chinese History (Hong Kong: Commercial Press, 1990) を参照。
13. Robinson to Chamberlain, 11 March 1896, CO 129/271。
14. 例えば Blake to Chamberlain, 18 May 1898, CO 129/283; 9 October 1898, CO 129/285; and 17 and 25 December 1899, CO 129/294 を参照。
15. 何啓についての異なる見解は G. H. Choa, The Life and Times of Sir Kai Ho Kai (Hong Kong: Chinese University Press, 1981、Ts’ai, Hong Kong in Chinese History 第9章および第10章、Carroll, Edge of Empires 第5章を参照。
16. Wei Yuk to Henry May, 20 August 1914(May to Harcourt, 11 September 1914, CO 129/413に添付)。
17. 妹仔論争については Susan Pedersen, “The Maternalist Moment in British Colonial Policy: The Controversy over ‘Child Slavery’ in Hong Kong 1917-1941,” Past and Present 171 (2001): 161-202、David M. Pomfret, “‘Child Slavery’ in British and French Far Eastern Colonies 1880-1945,” Past and Present 201 (2008): 175-213 を参照。
18. “Public Statement of Governor on the So-Called Slavery and Domestic Servitude Question,” 21 February 1880, CO 129/187。
19. Eitel’s report, 25 October 1879, CO 129/194。
20. John M. Carroll, “A National Custom: Debating Female Servitude in Late Nineteenth-Century Hong Kong,” Modern Asian Studies 43.6 (November 2009): 1463-93。
21. May to Long, 9 August 1918, CO 129/449。
22. “Child Slavery in Hong Kong,” Hong Kong Daily Press, 10 March 1920, CO 129/461; “Child Slavery: Under British Rule,” Hong Kong Daily News, 11 May 1921, CO 129/473。
23. Stubbs to Milner, 10 July 1920, CO 129/461。
24. Stubbs to Milner, 10 July 1920, CO 129/461。
25. Milner to Stubbs, 28 September 1920, CO 129/461。
26. Stubbs to Milner, 10 July 1920, CO 129/461。
27. “Chinese Meeting on ‘Mui Tsai’ Question,” Hong Kong Daily Press, 2 August 1921, CO 129/468; Lau and Ho’s report to governor, 4 August 1921, CO 129/468。
28. Churchill to Masterson-Smith, 21 February 1922, CO 129/478。
29. 省港大罷工については Chan Lau, China, Britain and Hong Kong, 第4章および同じ著者による From Nothing to Nothing: The Chinese Communist Movement and Hong Kong 1921-1939 (Hong Kong: Hong Kong University Press, 1999) 第4章、Carroll, Edge of Empires 第6章を参照。
30. Stubbs to Amery, 26 June 1925, CO 129/488。
31. 威海衛租借地の放棄については Pamela Atwell, British Mandarins and Chinese Reformers (Hong Kong: Oxford University Press, 1985) 第6章および第7章を参照。威海衛租借地とイギリスの漢口・九江「喪失」については Robert Bickers, Out of China: How the Chinese Ended the Era of Western Domination (London: Penguin, 2017) 第4章を参照。

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引用書式の例:キャロル、ジョン・M(センゲージラーニング株式会社 訳)「香港の歴史とCO 129文書群」 中国近現代史シリーズ:香港関係 英植民地省文書 1841-1951年. Cengage Learning KK. 2022

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