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はじめに

水晶宮(Crystal Palace)は、会う人誰もが何かを語らずにはいられないトピックであり、その名声はイギリス文化の一部となっている。水晶宮の起源は、1849年にアルバート王配(Albert, Prince Consort)が少数の友人や助言者らとともに、世界各国の産業に関する国際的な展示会を1851年に開催すると決めたことにさかのぼる。この展示会は後に “万国産業製品大博覧会(Great Exhibition of the Works of Industry of all Nations)” と題され、通常は “万国博覧会(Great Exhibition)” と略される。

ハイドパークの水晶宮外観図(『ILN』1851年8月2日号より)

ハイドパークの水晶宮外観図(『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース(以下ILN)』1851年8月2日号より)
"Exterior of the Crystal Palace Erected in Hyde Park for the Exhibition of the Industry of All Nations." Illustrated London News, 2 Aug. 1851. The Illustrated London News Historical Archive, 1842-2003


ロンドン万博以前

万国博覧会以前にも展示会はあり、イギリスのみならず、フランス、ドイツでも開催されていた。  量産製品の国際貿易によって育まれた競争心が商品を展示する必要性を生み出したとも言えるし、結果的にそれは商品の販売促進にもつながった。また、大量生産技術が進歩するにつれ、製品に一定の芸術性を付与する必要性が注目を集めるようになっていた。アルバート公は、この2つを結びつけることに強い関心を抱いたのである。1843年、美術協会(Society for Arts and Manufactures)の総裁に選出されたのを機に、彼はこの考えを一層精力的に推し進めることができるようになった。1846年には、ヘンリー・コール(Henry Cole)が同協会に加入している。2人は協会の他のメンバーとともに一連の製品展示会を実現すべく取り組んだ。

アルバート公(『ILN』1844年1月6日号より)

アルバート公(『ILN』1844年1月6日号より)
"Prince Albert." Illustrated London News, 6 Jan. 1844, p. 9. The Illustrated London News Historical Archive, 1842-2003


1847年、1848年、1849年に開催されたそれらの展示会は、年を追うごとに成功を収めていった。1847年には、イギリスの製品と装飾美術品214点が協会会館の大広間に展示され、来場者は2万人を超えた。1848年には約700点が展示され、7万3,000人が来場。1849年の展示会は来場者が10万人に達している。2  1846年の展示会カタログ序文には下記のような説明があった。

「われわれは、芸術的な製品が評価されていないとすれば、それは十分に広く知れ渡っていないからだと考えるに至った。英国製の優れた作品を展示することによって、十分に評価が高まり、余すところなく享受していただけるようになると信じている。(…)本博覧会が開会すると(…)万人に門戸が開かれ、一般大衆の眼識を向上させるだろう。」3

この意思表明は、結果的に1851年に何が起きたのかを考えると、予言的だったと言える。

1847年美術協会展示会の展示物(『ILN』1847年3月13日号より)

1847年美術協会展示会の展示物(『ILN』1847年3月13日号より)
"Society of Arts.—Select Specimens of British Decorative Art." Illustrated London News, 13 Mar. 1847, p. 172. The Illustrated London News Historical Archive, 1842-2003


ハイドパークの水晶宮

1849年6月30日にバッキンガム宮殿で開かれた会議で、計画中の博覧会が国際的なものになることが確認された。4  また、万国博覧会の計画を実施する最善の方法として、アルバート公を筆頭とした王立委員会(Royal Commission)が設置されるべきとの決定もこの会議で下された。委員会設置の大きな利点は、出展者たちの利益相反から離れた公平性であった。5  実現までに半年を要したものの、1850年1月3日に委員会が設置されている。美術協会からはメンバー数名が王立委員会に任命された。スコット・ラッセル(Scott Russell)が同委員会に2人いた共同書記長の1人として、また、ヘンリー・コールが実行委員会の一員、ディグビー・ワイアット(Digby Wyatt)が実行委員会の書記長に就任している。

ロンドン市長公邸で行われた万博の立ち上げ会議(『ILN』1850年2月2日号より)

ロンドン市長公邸で行われた万博の立ち上げ会議(『ILN』1850年2月2日号より)
"The Great Exhibition of Industry, 1851." Illustrated London News, 2 Feb. 1850, pp. 73+. The Illustrated London News Historical Archive, 1842-2003


ジョセフ・パクストン(Joseph Paxton)が万国博覧会に関与するようになったのは、計画工程のかなり後になってからである。パクストンがアイデアを完全に形にするまでに与えられた期間はせいぜい10日ほどだった。博覧会の建物のスケッチは描き上がっていたものの、大至急、完全な設計図に仕上げなくてはならなかった。6  彼が取り組んだのは、建物に使われる鉄鋼以外の主要建材をガラスにするという前例のない課題だった。当時、ガラスは一般的な建築資材ではなかったことは確認しておきたい。1840年代半ばまでガラスには税金がかけられていたため、建物に使用できたのは、その多少にかかわらず、富裕層に限られていたのである。7  パクストンが設計した建物は、長さ1,848フィート、幅450フィート、身廊の高さは64フィート(訳注:メートルに換算すると長さ約563m、幅約137m、身廊の高さ約20m)と巨大なもので、ガラスを大量に製造かつ設置しなくてはならない設計だった。

水晶宮の設計者パクストン氏の肖像(『ILN』1851年5月3日号より)

水晶宮の設計者パクストン氏の肖像(『ILN』1851年5月3日号より)
"Mr. Paxton, Architect of the Great Exhibition Building." Illustrated London News, 3 May 1851, pp. 344+. The Illustrated London News Historical Archive, 1842-2003

水晶宮のためのガラス製造(『ILN』1850年12月21日号より)

水晶宮のためのガラス製造(『ILN』1850年12月21日号より)
"Manufacture of Glass for the Crystal Palace." Illustrated London News, 21 Dec. 1850, pp. 470+. The Illustrated London News Historical Archive, 1842-2003

 

建設全体で何よりも求められたのがスピードだった。結果として、可能な限り多くの建設工程を機械化せざるを得なかった。底板、柱、横断桁を製造するための鋳造工程が考案された。床板、桟(その切断と塗装も含む)、手すりについても、それぞれ大量生産用の特注機器が用意されている。1850年12月末までに雇用された建設作業員は2千人に上り、広く注目を集めた。8  特に袖廊の肋材を持ち上げる作業は、その巨大さから人々を大いに驚かせた。9

手すり製造工程の説明(『万博公式図入り目録』第1巻, 1851年より)

手すり製造工程の説明(エリス他『1851年万国産業製品大博覧会 挿絵入り公式解説目録』第1巻, 1851年より)
Ellis, Robert, et al. Official Descriptive and Illustrated Catalogue: by Authority of the Royal Commission in Three Volumes. Vol. 1, Spicer Brothers, Wholesale Stationers; W. Clowes and Sons, Printers, 1851. Smithsonian Collections Online: World’s Fairs and Expositions, Visions of Tomorrow

袖廊天井の肋材を持ち上げる作業(『ILN』1850年12月14日号より)

袖廊天井の肋材を持ち上げる作業(『ILN』1850年12月14日号より)
"Raising the Ribs of the Transept Roof." Illustrated London News, 14 Dec. 1850, pp. 452+. The Illustrated London News Historical Archive, 1842-2003


多種多様な展示物

水晶宮のフロアは、袖廊の西側がイギリスとその植民地の製品に、袖廊の東側が外国の製品に割り当てられ、各国の展示は30の商品分類に従って配置された。袖廊西側の身廊全域が割り当てられたイギリスには商品をテーマごとに分類する余地があった。中世館は、唯一の “様式的” な館として、それ自体が独自の部類になっており、ヘンリー・コールの友人であるオーガスタス・ウェルビー・ピュージン(Augustus Welby Pugin)がデザインしたもので埋め尽くされていた。ピュージンは、再建中のウェストミンスター宮殿で行ったように、ここでも様々な製品のすべてをゴシック・リバイバル様式でデザインするという類いまれな技能を披露している。10 

地域別の区画を示した会場平面図(『ILN』1851年5月8日号補遺より)

地域別の区画を示した会場平面図(『ILN』1851年5月8日号補遺より)
"Plan of Exhibition Building, Shewing the Geographical Distribution of Spaces." Illustrated London News, 8 Mar. 1851. The Illustrated London News Historical Archive, 1842-2003

中世館(『ILN』1851年9月20日号より)

中世館(『ILN』1851年9月20日号より)
"The Mediæval Court." Illustrated London News, 20 Sept. 1851, pp. 362+. The Illustrated London News Historical Archive, 1842-2003


ほかに人々の記憶に残った展示には可動機械類があり、さらに屋外では原材料の石炭や鉱石が展示されていた。とにかく、見るべきものが多過ぎるほどだった。ボヘミアンガラス、ヒンズー教カーストの陶人形、象牙彫刻、脱穀機、陶磁器の花瓶、アザミ型のインクスタンド、オーストリア皇帝が女王に贈呈したゴシック様式の本棚、ヴュルテンベルクから来た猫や蛙の剥製群、パピエ・マシェの仕切り付き収納台、エトルリアの壺、書籍、インドから来た船やボートの模型、時計、書見台など、数え上げればきりがない。今日に至っても、いろいろな機関が当時の展示品のカタログを作成しているほどである。11

水晶宮身廊北西部のパノラマ図(『ILN』1851年12月6日号より)

水晶宮身廊北西部のパノラマ図(『ILN』1851年12月6日号より)
"Grand Panorama of the Great Exhibition.—No. III.—North-East Portion of the Nave." Illustrated London News, 6 Dec. 1851. The Illustrated London News Historical Archive, 1842-2003

 

到着する品々の多さを『パンチ』誌は「一八五一年メーデー」と題された漫画で諷刺している。12  また、同イベントを蜂の巣になぞらえ、水晶宮とその展示品に群がる蜂で表したものもあった。13  博覧会の内容を詳しく説明した出版物にも事欠かなかった。王立委員会は、文房具商のスパイサー・ブラザーズ(Spicer Brothers)と印刷会社のウィリアム・クラウズ(William Clowes)にカタログの作成を委託しており、その品質を反映した価格設定になっていた。『審査員報告及び王立委員会報告(Reports by the Juries and Reports by the Royal Commissioners)』とともに発行された『挿絵入り公式解説目録(Official Descriptive and Illustrated Catalogue)』のインペリアル・クォート判は、「最高の活字書体で」上質紙に印刷されており、当初6巻で発行された際の値段は20ギニー(訳注:1ギニーは1.05ポンド)であった。14

一八五一年メーデー(『パンチ』1851年5月3日号より)

一八五一年メーデー(『パンチ』1851年5月3日号より)
"May Day, Eighteen Hundred and Fifty-One." Punch, vol. 20, 3 May 1851. Punch Historical Archive, 1841-1992

エリス他『1851年万国産業製品大博覧会 公式挿絵入り目録』第1巻(1851年)より表紙および扉絵

エリス他『1851年万国産業製品大博覧会 挿絵入り公式解説目録』第1巻(1851年)より表紙および扉絵
Ellis, Robert, et al. Official Descriptive and Illustrated Catalogue: by Authority of the Royal Commission in Three Volumes. Vol. 1, Spicer Brothers, Wholesale Stationers; W. Clowes and Sons, Printers, 1851. Smithsonian Collections Online: World’s Fairs and Expositions, Visions of Tomorrow


開会と入場

ロンドンの主要な日刊紙すべてが、1851年5月1日の開催前から、その後に至るまで万国博覧会を大々的に報じ、それらの報道は地方紙によっても種々取り上げられた。1851年5月1日土曜日、“産業の殿堂” の開会式典はビクトリア女王の臨席のもとに行われた。水晶宮は1階部分だけで4万人から6万人の立見客を収容できると推定され、初日には、屋内に用意された有料席を購入した2万5千人が開会式を見守った。袖廊の中央に用意された演壇でアルバート公が演説し、博覧会展示品の挿絵入り目録をビクトリア女王に進呈している。その後、女王とアルバート公が側近とともに館内を回り、多種多様な展示品を見てから演壇に戻り、博覧会の一般公開を公式に宣言した。この日の入場料は1人4ポンドだった。15

女王陛下による開会式(『万博図会』1851年より)

女王陛下による開会式(『万博図会』1851年より)
Great Exhibition. The Illustrated Exhibitor: A Tribute to the World's Industrial Jubilee; Comprising Sketches, by Pen and Pencil, of the Principal Objects in the Great Exhibition of the Industry of All Nations, 1851. John Cassell, [1851]. Smithsonian Collections Online: World’s Fairs and Expositions, Visions of Tomorrow

入場料は委員らの優先順位が反映されている。5月2日から24日までの入場料は5シリングだった(訳注:1シリングは1/20ポンド)。その後は、月曜日から木曜日までが1シリング、金曜日は2シリング6ペンス(訳注1ペンスは1/12シリング)、土曜日は5シリングとなっている。この料金設定が8月2日まで続いた後、土曜日の入場料が2シリング6ペンスに下げられた。来場者数を見ると、明らかに1シリングの日が圧倒的に多く、金曜や土曜の倍になることも多々あった。16  『パンチ』が異なる料金を支払った来場者間の邂逅について茶化さずにいられなかったことは言うまでもない。17

ポンドとシリング:まさかここでお会いするとは!(『パンチ』1851年6月14日号より)

ポンドとシリング:まさかここでお会いするとは!(『パンチ』1851年6月14日号より)
"The Pound and the Shilling." Punch, vol. 20, no. 518, 14 June 1851. Punch Historical Archive, 1841-1992

最も豪華な出版物のひとつは、『ディキンソンの1851年万国博覧会の包括的図版(Dickinson's comprehensive pictures of the Great Exhibition of 1851…)』である。18  博覧会の記録を目的とし、アルバート公の “明確な認可” を得ており、1852年に18部構成で発行されている。値段は各部1ギニーであった。54点のフォリオ判彩色リトグラフ図版を含み、実に見事に仕上げられている。多くの人が見入ってしまったのも不思議ではない。これほど鮮やかに彩られた、これほど多くの品々を、ましてやこれだけの量、目にする機会などほとんどの人は皆無だっただろう。インドの展示には7点もの彩色リトグラフが充てられている。4点目の図版には、きらびやかな飾り衣装をまとった象の剥製が描かれている。

博覧会は、建物と展示品の双方にまつわる多くの文献を生み出した。サミュエル・ウォーレン(Samuel Warren)の『百合と蜜蜂(The lily and the bee)』は、寓意にあふれた初期の韻文である。19  百合が美と芸術を象徴する一方で、蜜蜂は産業と労働を象徴している。その狙いは、万人の利益のために芸術と労働を融合させることだった。20  このテーマは、ウィリアム・セントクレア(William St. Clair)の詩、『1851年の万国博覧会(The Great Exhibition of 1851)』にも反映されている。

平和よ、この地に降り、長らく失われてきたその権利を主張するときが来た
諸国は耳を傾ける―率直に心の内を明かしてくれ―
彼らは争わずとも秩序を保てると
理性こそが人類の武器であるから… 21


『パンチ』の諷刺

もちろん、イベントには滑稽な側面もあった。『パンチ』誌が安定供給する一連の漫画では終始、博覧会が物笑いの種にされていた。例えば、博覧会の開会時にあまり準備が整っていない様子のアルバート公、22  各々の問題を抱えた閣僚たちの船が難破し “万博蒸気船” に救助される様子23、入場料が1ポンドの日よりもはるかに大勢の観客を集めた1シリングの日のために、ビールが吹き出す樽に変えられたオスラー(Ostler)の水晶噴水24、水晶宮を背景に世界各国のキャストが出場する「一八五一年の大ダービー・レース」25、博覧会の閉会を受けて、収益の取り分として2万ポンドの “プディング” をアルバート公から手渡されるパクストン26  などである。

ブリタニアの盛大なパーティー(『パンチ』1851年4月26日号より)

ブリタニアの盛大なパーティー(『パンチ』1851年4月26日号より)
"Britannia's Great Party." Punch, vol. 20, no. 511, 26 Apr. 1851. Punch Historical Archive, 1841-1992

難破大臣たち、“万博蒸気船”に救助さる(『パンチ』1851年6月7日号より)

難破大臣たち、“万博蒸気船” に救助さる(『パンチ』1851年6月7日号より)
"The Shipwrecked Ministers Saved by the Great Exhibition Steamer." Punch, vol. 20, no. 517, 7 June 1851. Punch Historical Archive, 1841-1992

噴水の図案(『パンチ』1851年6月21日号より)

1シリングの日に袖廊に設置する噴水の図案(『パンチ』1851年6月21日号より)
"Design for a Fountain." Punch, vol. 20, 21 June 1851, p. 257. Punch Historical Archive, 1841-1992

一八五一年の大ダービー・レース(『パンチ』1851年5月24日号より)

一八五一年の大ダービー・レース(『パンチ』1851年5月24日号より)
"The Great Derby Race for Eighteen Hundred and Fifty-One." Punch, vol. 20, 24 May 1851. Punch Historical Archive, 1841-1992

空世辞よりプディング(『パンチ』1851年10月25日号より)

空世辞よりプディング(『パンチ』1851年10月25日号より)
"Praise and Pudding." Punch, vol. 21, no. 537, 25 Oct. 1851. Punch Historical Archive, 1841-1992


大盛況のうちに閉会

10月11日、ついに閉会日を迎えることとなるが、それまでに博覧会を訪れた人は603万9,195人、飲食に支払われた金額は7万5,557ポンド15シリングであった。消費された食品の量は驚異的と言える。コテージパン6万698個、パウンドケーキ6万8,428個、バース・バン(訳注:菓子パンの一種)93万4,691個、ピクルス1,046ガロン、ハム33トン、牛乳3万3,432クォート、シュウェップスソーダ水、レモネード、ジンジャービール計109万2,337本に上った。27  博覧会の収入は50万6,100ポンド、支出が29万2,794ポンドで、差引き21万3,305ポンドとなる。金儲けを目的としない事業としては、その点で成功を収めた博覧会だった。28

会期中の軽飲食物消費量(『公式挿絵入り目録』第4巻(1851年)より

会期中の軽飲食物消費量(『公式挿絵入り目録』第4巻, 1851年より)
Ellis, Robert, and Great Britain. Commissioners for the Exhibition of 1851. The Official Descriptive and Illustrated Catalogue of the Great Exhibition of the Works of Industry of all Nations, 1851. Vol. 4, Wm. Clowes and Sons, 1851. The Making of the Modern World

 

この万国博覧会が、国内・国際展示会の世界的な展開という流れの先駆けとなったことは間違いない。現在、「万博」として知られるものは、1851年のハイドパーク大博覧会に端を発している。

この万国博覧会を最も効果的に表現した文章は、おそらく、ハイドパーク水晶宮の解体を受けて当時書かれたこの詩であろう。

さまよう風よ、自由に吹くがいい
つい先頃まで世界有数のきらめく不思議が輝きを放っていたあの地の上を
世界中の巡礼者を呼び集めるのだ
この先も永遠に、この王権に統治される島に
この小宇宙
白銀の海に置かれた、この宝石
この神聖な所、この大地、この領土、このイングランド
あの緑茂る場所に
そして、成長し、疑い深くなった息子たちにこう伝えるのだ
それはここに建っていたと! 29

 

水晶宮の南側正面外観(『ILN』1851年5月3日号より)

水晶宮の南側正面外観(『ILN』1851年5月3日号より)
"Exterior of the South Front of the Great Exhibition Building." Illustrated London News, 3 May 1851, pp. [359]+. The Illustrated London News Historical Archive, 1842-2003

脚注:


1 これらのロンドン万博以前の展示会については Derek Hudson and Kenneth Luckhurst. The Royal Society of Arts, 1754-1954. London, John Murray, 1954. pp. 187-205 を参照

2 Hudson & Luckhurst, 前掲書 pp.193-195.

3 同上, p. 193.

4 The Great Exhibition Conference at Buckingham Palace. 30th June 1849

5 Great Exhibition of the Works of Industry of All Nations, 1851. Official Descriptive and illustrated catalogue. 3 vols., and Supplement. London, Spicer Bros; W, Clowes and Sons, 1851. Vol.1, p.5. 第1巻 pp. 1-35 の「Introduction」はヘンリー・コール著、同 pp. 49-81 の「建物の建設」はマシュー・ディグビー・ワイアット著。

6 A memorial of the Great Exhibition, 1851. The embodiment of a great idea. Memoranda, plans, etc, ... [Collection formed by Mr R.H. Love...] British Library. Add. MS. 35255, fol. 30.

7 P. Beaver. The Crystal Palace 1851-1936. London, Hugh Evelyn, 1977. p. 18.

8 Great Exhibition... Official ...Catalogue. 前掲書 Vol. 1, p.78.

9 Illustrated London News, 14th December 1850.

10 Pugin: A Gothic revival. Exhibition at the Victoria & Albert Museum, 15th June-11th September 1994. この展示会ではハイドパーク水晶宮中世館の展示物のいくつかが展示された。

11 Exhibits from Guernsey. http://www.museums.gov.gg/great_exhibition__1851.htm を見よ(20075月にアクセス  訳注:202212月現在リンク切れ)

12 Punch. Vol 20. Jan.-June 1851, p. 179.

13 H. Mayhew and George Cruikshank. The adventures of Mr & Mrs Sandboys & family. 1851.

14 3 vols. 本作の大英博物館長官への献本が大英図書館に所蔵されている。

15 下記URLに公開された情報に拠る http://www.museums.gov.gg/great_exhibition__1851.htm20075月にアクセス  訳注:202212月現在リンク切れ); 以下も参照のこと P. Beaver. The Crystal Palace 1851-1936. London: Hugh Evelyn, 1970, pp. 37-42; Hobhouse, Christopher. 1851 and the Crystal Palace... London: John Murray, 1950, pp. 62-70.

16 来場者数の詳細は First Report of the Commissioners... pp. 147-149 付録28番(Appendix no. XXVIII)で見ることができる。

17 Punch. Vol 20. Jan.-June 1851, p. 247.

18 Dickinson's comprehensive pictures of the Great Exhibition of 1851; from the originals painted for H.R.H. Prince Albert by Messrs. Nash, Haghe, and Roberts, R.A. Published under the express sanction of His Royal Highness Prince Albert, President of the Royal Commission, to whom the work is, by permission, dedicated. 2 vols. London, Dickinson Brothers, Her Majesty's printers, [1852].

19 Samuel Warren. The lily and the bee. An apologue of the Crystal Palace. Edinburgh and London, William Blackwood & Son, 1851. xiii,224,[1] pp.

20 Tallis' history and description of the Crystal Palace... 前掲書, vol. III, p.1.

21 William St. Clair. The Great Exhibition of 1851. A poem. London, Partridge & Oakley, 1850. Verse xv. 本書は BL Add. MS. 35,255, fol. 494 に収蔵されている。

22 Punch. Vol 20. Jan.-June 1851, p. 169.

23 Punch. 同上, p. 237.

24 Punch. 同上, p. 257.

25 Punch. 同上, p.213.

26 Punch. Vol. 21. July-Dec. 1851, p.181.

27 First Report of the Commissioners... 前掲書 Appendix XXIX, p.150.

28 同上, Appendix XXXII, p. 154.

29 Samuel Warren. The lily and the bee. 前掲書 p. 24.

訳注:翻訳にあたっては松村昌家『水晶宮物語:ロンドン万国博覧会1851』(リブロポート, 1986)を参照しました。

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引用書式の例:キング、エド(センゲージラーニング株式会社 訳)「水晶宮と1851年ロンドン万博」Cengage Learning KK. 2023

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