ホーム > 一次資料アーカイブ (Primary Sources) > 中国近現代史シリーズ > 中国海関文書集 1854-1949年 > 中国海関の紹介 1854年~1949年


(本エッセイの英語原文はこちらよりご覧いただけます。Click here for English text.)

 

中国海関は、約1世紀にわたり中国と世界経済の関係において中心的な役割を果たしてきた。海関は中国政府の一部であったが、指揮を執っていたのは外国人だった。厳密に言うと、その役割は関税(輸出入税)の正確な評価を行うことに限定されていたのだが、時とともに、港や灯台の保守整備、対外債務の支払い、非常に多岐にわたる外部報告書の作成、中国政府への技術支援などを含む、数々の活動にかかわるようになっていった。海関職員が外交協議にかかわったり、中国当局者と海外代表の間を取り持つ非公式の仲介者となったりすることも多々あった。

海関アーカイブは、この時代の中国と中国経済を理解する上で比類なく貴重な情報源である。中国語を学ぼうとする外国人が比較的少なかった時代にあって、海関の税務司は中国語に堪能でなくてはならなかった。中国当局者、海外の外交官、世界各国のビジネスマンと日常的に連絡を取り合っていた海関税務司は、群を抜いて情報通であることが多々あった。

本データベース、中国近代史シリーズ:中国海関文書集 1854-1949年 に収められた資料を理解するには、一定の背景情報が非常に役立つであろう。このエッセイでは、海関の歴史を1850年代の誕生から1949年の国共内戦における共産党の勝利に至るまで紹介する。

 

海関の誕生

海関のルーツは、混乱を極めた1850年代の上海にある。大規模な太平天国の乱や小規模な数々の反乱に中国が大きく揺らいでいた時代だった。

1854年、秘密結社とつながりがある小刀会(Small Swords)という集団が上海の街を掌握し、中国人徴税官を排斥した。諸外国の外交官らは、清朝がいずれこの反乱を制圧するだろうと期待しつつも、当面の間、徴税が滞れば、1840年初期にアヘン戦争の終結を受けて構築された条約体制の破綻につながるのではないかと不安を募らせていた。そこで、暫定的な措置として、条約で合意されている徴税を実行するために外国人税務司が任命されることになったのである。これが功を奏したことから、小刀会の反乱が崩壊した後も、清朝地方官吏の承認を得てその運営が続くことになった。その数年後、第二次アヘン戦争中にイギリスとフランスが広州を掌握した後、上海体制が広州にも拡大されることとなる。元イギリス領事で通訳のホレイショ・ネルソン・レイ(Horatio Nelson Lay)が同組織の初代総税務司に就任し、この体制は、1860年、北京条約の締結により、戦争が終結するまで外国人の庇護の下で続けられた。1 

ホレイショ・ネルソン・レイ肖像画

ホレイショ・ネルソン・レイ (年代不詳)
(Source: Ministry of Finance, Republic of China)

 

戦後、列強とより協力的な関係を構築する努力の一環として、1861年に新設された外交機関である総理衙門の清朝官吏は、H・N・レイ総税務司と彼の海関を迎え入れることにしたのである。それから数年かけて、各条約港に海関が開設され、これらを統括したのが北京の総理衙門であった。

当初は、このアイデアに確信を持てずにいた総理衙門だったが、すぐに海関が貴重な存在であることに気づくのだった。海関は外国船の運ぶ輸出入品に課せられる税金の評価はするものの徴税の実務は行わず、支払いは中国の各関税銀行に対してなされる。つまり、関税収入の評価と徴収の役割を分離することによって腐敗の機会が最小限に抑えられたのだ。実際の評価額を海関が北京の総理衙門に報告することで、ほかの税収よりも、関税収入に対する中央政府の支配力強化が確保されていたのである。

ただ、問題は統率者であった。初代のH・N・レイ総税務司は、中国人の雇用主に対して強硬な姿勢をとっていた。1862年にはレイは、総理衙門の承認を得て、太平反乱軍との戦いに使用する蒸気小型砲艦の小艦隊を購入し、シェラード・オズボーン(Sherard Osborn)というイギリス海軍将校を雇ってその指揮を任せていたが、オズボーンが中国に帰還しようとしていた際に、彼が清朝官吏ではなく、レイからの命令にしか従わないとする合意文書の存在が明らかになってしまう。これは、地方と中央双方の官吏にとって容認できない事態であった。さらにレイは、清朝政府における権力と地位を求める法外な一連の要求に加え、関税徴収業務を奪取するとまで脅迫したのである。結局、彼は諸外国の外交官との短い協議を経て解任され、小艦隊もイギリスに戻されることとなった。これを受けて新総税務司の座に選任されたのが、レイの補佐をしていたロバート・ハート(Robert Hart)で、1911年に他界するまで在任し続けることとなる。2

 

ロバート・ハート卿統率下の海関、1863-1908年

ロバート・ハート肖像画

ロバート・ハート(1900年の出版物より)
Martin, William Alexander Parsons. A Cycle of Cathay: Or, China, South and North. With Personal Reminiscences. 3rd ed., Fleming H. Revell Company, 1900. Nineteenth Century Collections Online: Maps and Travel Literature)

レイの不名誉な解任は、清朝政府と総税務司との関係を規定することになった。ハートはその任に最適だったと言える。就任前の3年間に北京に長期滞在していた経歴があり、総理衙門の官吏とも良好な関係を築いていた。就任後2年もたたないうちに、総理衙門の大臣らから北京に恒久的な海関本部を設置するよう依頼されているが、これはレイが要求していた特権の1つだった。ハートは中国人からも外国人からも評価される効率的な組織を築きあげた。それでも、何よりもまず、自分が中国政府の役人であることを理解していた。自身を管轄する総理衙門監督官の懸念には常に細心の注意を払う一方で、李鴻章を始めとする有力な当局者にも同様の気配りをしていた。彼は、海関組織に対する最も有名な指示と言える中の1つでこう宣言している。「明確に絶えず心すべき点は、海関税務司が中国の官庁であり、外国の官庁ではないことである。よって、無礼や不信感の種となり得るすべてを避けるような手法にて、中国国民と官吏のために行動することが各職員の職務である。」

ハートが海関で働く外国人税務司に一貫して伝えていたのは、近代化と改善が可能な部分については提案することができるし、また提案すべきであるが、清朝官吏の権威に敬意を払わなくてはならないというメッセージだった。3

ハートの通令第8号より(1864年6月21日)
Circular No. 8 of 1864. Inspector General’s Circulars, Vol. 1, First Series. 1861-1875. TS Part One: Inspector General's Circulars: Official Circulars Classmark: 679 (1); Call number: 26890. The Second Historical Archives of China. China and the Modern World.

 

ハートは有能な組織編成者だったが、彼の構築した海関は対照の見本のようだった。慎重に編成された階層的組織、機能的に定義された役割、公布された規則があり、いろいろな意味で典型的な行政官僚制度だった。すべての条約港に税関事務所があり、北京には本部がおかれ、ロンドン事務所まであった。ハートは上海には税関事務所に加え、自前の印刷・出版設備をもつ統計部門も設立している。海関は、通商と課税を中心にしつつ、医学報告書や気象報告書、多岐におよぶ海関の活動に関する報告書を出版した。本データベースに収録されている総税務司通令(The Inspector General’s Circulars)には、総税務司としてのハートとその後継者らが全海関職員に対して遵守を求めた規則と規範が具体的に示されている。ハートは、これらの文書を通して、プロ意識、高潔性、組織に対する忠誠心という文化も発展させようとしていたのだ。この制度的枠組みは後任の総税務司に受け継がれていった。

その一方で、北アイルランドでプロテスタントの中流家庭に生まれ、イギリス領事館で働くために中国に渡ったハートには、自身と同じような男性を採用する傾向があった。教養があり、有能かつ野心的で故郷では見つからないようなチャンスを求めているような男性である。中国だけで質の高い外国人を探し出すのは無理だと気づいた彼は、ヨーロッパやアメリカで若い男性を募集し始めた。海関ロンドン事務所では不適格な応募者をはじくための試験も作っている。海関の税務司はほとんどが英国人だったが、ハートは、他国からの応募も奨励するように気をかけ、その多くを重要な役割に昇進させている。これは、海関がイギリスの利益と密接に関係しすぎていると捉えられないようにするための配慮だった。中国に到着すると、中国語のトレーニングが始まる。職にとどまり、昇進するためには、中国語での会話と読み書きを一定程度習得しなくてはならず、より高度な熟達が奨励されていた。4

ロンドン事務所による新規採用者の写真アルバム(写真の日付は1928年~1929年)
"Photograph Album [1]." Part Two: London Office Files, Gale, a Cengage Company, 1903-1933. China and the Modern World.

 

以上の多くは近代行政機関のパターンに当てはまるとは言え、海関の組織構造は特異であった。ハートは、自らに本質的に無制限の権威を付与していた。総税務司としては総理衙門の監督下にあったが、海関のその他全員はハートに直属しており、昇進や異動に関する決定はすべて彼が行っていた。部下の目から見ると、ハートにはえこひいきをする傾向があり、特に腹立たしかったのは縁故主義であった。弟のジェイムズ・ハート(James Hart)と義理の弟のロバート・ブレドン(Robert Bredon)を採用し、上の職位にスピード昇進させ、それぞれを自らの後継者候補であると、時を異にして示唆することまであった。結果的に、ハートの後継者となるフランシス・アグレン(Francis Aglen)も、アイルランドにいたハートの友人の息子である。もう一人の未来の総税務司、フレデリック・メイズ(Frederick Maze)も、1880年代、1890年代にスピード昇進を果たして他の海関職員を激高させているが、彼はハートのおいだった。5

それでも、いろいろな意味において、1863年から1895年までの三十年余りは海関の歴史の全盛期だったと言える。清朝政府の官吏は、ハートや多くの上級税務司を頼りになる顧問と受け止めていた。西洋の言語を流暢に使いこなしたり、西洋の文化やしきたりに慣れ親しんだりしている中国人がごくわずかだった時代に、ハートの海関は、大いに必要とされていた言語支援と技術支援を提供していたのである。海関職員は清朝の海外使節団に随行し、ペルーやキューバにおける苦力(クーリー)貿易の調査を行い、万国博覧会における清朝の展示も取り計らった。ハートは、幾度となく外交に干渉して危機の解決に寄与しており、中国で最も影響力を持つ外国人として広く認められていた。また、海関ロンドン事務所の所長、ジェイムズ・ダンカン・キャンベル(James Duncan Campbell)が、外交、財政問題に関する非公式のパイプ役を務めることもあった。

海関による郵便制度の創設に関するハートの通例第2集90号(1879年12月22日)
Inspector General’s Circulars, Vol. 2, Second Series. 1876-1882. TS Part One: Inspector General's Circulars: Official Circulars Classmark: 679 (1); Call number: 26891. The Second Historical Archives of China. China and the Modern World.

さらに、清朝の洋務運動はその資金源の多くを海関からの収入に拠っていた。また、関税収入は対外借款の担保としても利用されていたが、借款の規模は限定的で、例えば、イスラム教徒反乱軍から新疆を奪還する左宗棠の遠征を援助するためなど、手堅く使われていた。

日清戦争が終結した1895年から辛亥革命が勃発した1911年の間、海関は転換期を迎える。何よりもまず第1に、日清戦争と義和団の乱が清朝に惨憺たる結果をもたらし、賠償金の支払いに巨額の対外債務を求めざるを得なくなっていた。この債務の担保が海関収入だったのである。つまり、中国における外国政府の権益と、海関における影響力が高まったことを意味する。第2に、この間、海関の活動範囲が広がり、中国郵便制度の構築、そして後に中国の海運業に課せられる “常関”(Native Customs)の徴収業務も引き継いでいる。このような管轄の拡大が、すでに厳しい状態にあった海関の資源圧迫に拍車をかける結果となった。6  第3に、1900年の義和団の乱で包囲された北京公使館の外国人の中にハートとロバート・ブレドン副総税務司も含まれていたことで海関に危機が起こった。この時、両人とも助かったが、北京の海関資料群は破壊された。包囲の最中、ハートが死んだとの誤った認識のもと、海関では支配権を巡る政治工作が活発化した。第4に、ハートが高齢となり、健康を害していたことがある。彼の組織運営に根深い不満を抱く者が海関職員の中におり、その任を果たせるのかとの懸念が高まり、後任に関する噂話と憶測が飛び交っていた。諸外国の外交官らも、この件に関して清朝に圧力をかけるようになっていたのだ。在北京イギリス大使が、次の総税務司はイギリス人との約束を引き出し、希望の候補者を指名するほどだった。こういった動きに不満を覚えたハートは、積極的に後継候補を失脚させていった。

廉州常関の図

北海海関から50里以内の常関の位置を記した図(1914年1月22日)
Lists of Native Customs Offices, Substations, etc. Submitted by Ports in Reply to Circular No. 2137. 1913-1914. MS Parts Four and Five: The Policing of Trade: Native Customs Classmark: 679 (1); Call number: 17656. The Second Historical Archives of China. China and the Modern World.

 

中国政府との関係も変わり始めていた。列強から極度の屈辱を味わった後、中国ではナショナリズムが高まり、海関の役割に対して疑念を抱く批判が増えていた。清朝官吏も、40年たったにもかかわらず、海関を管理するエリート、“屋内職員”(indoor staff)に中国人を雇い入れる努力を真剣にしてこなかったと不満の声を上げるようになった。1906年、北京政府の大改革のさなかに、創設からずっと総理衙門(義和団の乱後、外務部に名称変更)の管轄下にあった海関は、新たな機関である税務処の下に移行されている。表面上は、単に行政の適正化と映るかもしれないが、これは明らかに海関の影響力低下を目的とした政治的な動きであった。諸外国の外交官らはこの変更に抵抗したが、清朝政府の態度は変わらなかった。この間、賢明にもハートは口を閉ざし、移行は比較的スムーズに行われている。7

海関の監督機関が税務処となったことを伝達する通令第2集1,369号(1906年9月22日)
B.--Circular No. 1,369 of the 22nd September 1906.
Inspector General’s Circulars, Vol. 9, Second Series, Nos. 1201-1400. 1905-1906. TS Part One: Inspector General's Circulars: Official Circulars Classmark: 679 (1); Call number: 26898. The Second Historical Archives of China. China and the Modern World.


1908年、ハートは休暇で中国を離れ、その後、この地に戻ることはなかった。彼の補佐をしていたロバート・ブレドンが、短期間、総税務司の代行を務めることとなった。1910年、税務処がイギリス人でハートの秘蔵っ子でもあるフランシス・アグレンを総税務司の代行として指名し、1年後には総税務司代理に昇進、ハートからの正式な辞職届を待つこととなる。1911年9月にハートが他界し、アグレンが総税務司に就任した。8

 

列強による帝国主義の一機関としての海関

1911年10月10日、ハートの死から1カ月もたたずして、武昌起義によって清朝転覆の流れが始まった。この革命が海関に差し迫った難題を突きつけることとなる。各省が清朝からの独立を宣言する中、税関事務所の多くを各省の条約港におく海関はどこの監督下にあるべきかというジレンマに直面したのである。同時に、中国の対外債務は関税収入を担保としていた。危機が進行するなか、アグレンは、絶望的な状況に陥っていた北京政府の同意を得て、諸外国代表から合意を取り付けている。海関は政治状況に関係なく、統一組織として機能し続けるというものだった。

武昌起義の状況をアグレンに伝える漢口税務司サグデンの準公式書簡(1911年10月11日)
Hankow Semi-Official Correspondence. 1910-1911. MS Part Three: Semi-Official Correspondence from Selected Ports: Semi-Official Correspondence, Hankow Classmark: 679 (1); Call number: 32138. The Second Historical Archives of China. China and the Modern World.

さらに、関税収入の徴収業務も引き継ぎ、その資金は保管され、対外債務を返済するために配分された。厳密に言えばまだ中国政府の一機関ではあったが、その主要な機能は、諸外国の金融権益のために借金の取り立てをすることになったのである。

1912年春、清朝皇帝の退位を受けて革命は迅速な終結を迎えるが、初期の民国政府は常に不安定であった。初代大総統に就任したのは、退位を協議した清の官吏、袁世凱である。ところが、その袁が国政選挙を受けて、1913年、クーデターをしかけることになる。相手は、同盟会の後継であり、1912年の選挙で勝利を収めた、宋教仁と国民党の選出議会だった。袁は専制君主として権力を自らのもとに集中させていった。アグレンは、袁世凱の強力な支持者となり、彼の政権を支えるべく、過渡的な資金提供をすることで支援に尽力した。

1915年、袁は、自ら皇帝の座に就こうとするという致命的な過ちを犯してしまう。北洋軍閥支持者内の味方ですら、これには反旗を翻し、自身の権威が崩壊していく中、袁世凱は1916年6月に急死している。それからの10年間、名ばかりの中央政府が北京に存在してはいたものの、その影響力が省にまで及ぶことはほとんどないというのが現実だった。それでも、アグレンは、革命期に決められた前例を踏襲し、北京政府の管轄下にあり続けていた。アグレンは海関が北京政権にとって財政的に役立つようにしていたが、軍閥時代(1916-1928年)を通して、その活動は主に中国政府の債務を取り扱うことが中心になっていた。

民国初期の海関は、フランシス・アグレンの指揮下で、ハートが構築した枠組みから著しく離れていった。ハートは、海関を中国の組織と捉え、1895年以降、海関に対する影響力を高めようとする列強の努力を不快に思っていた。一方、アグレンの下で、海関の役割は明らかに変容していった。アグレンは海関が3つの段階を経てきたと書き記している。「当初は純粋に中国の機関であった」が、1895年以降は「債務が生じ、我々は中国政府の権益がまだ優勢ではあったものの、諸外国の権益となっていった」。そこに、賠償金、関税の直接徴収、中央政府による監督の機能停止が加わり、さらなる変化につながることとなる。海関は「現在、“imperium in imperio”(政府内の独立した組織)と化し、政府の財政事項に関しては事実上独立して取り仕切りつつ、最終的には中国政府ではなく、列強の手中にある」とアグレン自身が記している。10

それでも、アグレンは海関が直面した一部の問題に取り組んだ。屋内職員の給料を上げ、保守管理と設備を改善すべく、より多くの資金を留保したのである。海関職員の労働組合化につながる動きには断固として反対していたが、最終的には長年にわたる要求であった正式な年金制度の創設にも応じた。しかし、海関に対する中国人の批判に関心を示すことはなかった。中国人職員の育成をしてこなかったとのハート時代からの批判に対処するどころか、アグレンは中国人を権威ある職位に採用することも、昇進させることもしないと決めていた。ハートが統括していた1860年代、1870年代であれば、必要な語学力や教育を持ち合わせた中国人が十分にいないと主張できたかもしれないが、1910年代にはこの主張は全く通らなくなっていた。同様に、“屋外職員”(outdoor staff)についても、外国人のブルーカラー労働者を大勢雇い続けていた。アグレンは、中国人には海関職員に必要な技能、人格が欠如しているとの主張を本質的に支持し、明確に人種や国籍で一線を引いていたのである。11

海関職員の年金制度に関する上海税務司ライアルからアグレン宛の準公式書簡(1919年)
Shanghai Semi-Official Correspondence. 1918-1920. MS Part Three: Semi-Official Correspondence from Selected Ports: Semi-Official Correspondence, Shanghai Classmark: 679 (1); Call number: 32220. The Second Historical Archives of China. China and the Modern World.

1920年代半ばには、このままいけば、海関は中国で高まっていたナショナリズム熱との衝突を避けられないことが明白であった。時期を同じくして、新たな脅威となる中国国民党の台頭も生じていた。1920年代初期、孫文は国民党とその軍隊を広東で組織する一方で、先の省政府が受け取っていたように、関税収入の分け前を渡すよう強く要求したのだ。列強は海関から暗黙の支持を受けつつ抵抗したが、1926年から、新指導者、蒋介石のもとで国民党は、軍事的な中国の再統一に着手した。驚きの事実は、1927年にアグレンを突如解雇したのが北京政府だったことである。

 

フレデリック・メイズ卿指揮下の海関

アグレンの後任が指名されるまでには2年の月日を要した。この頃には、国民党が中国本土ほぼ全域を掌握し、南京に首都を構えていた。1929年、新政府は、アグレンが指名した後継者でイギリス外務省も推していたアーサー・エドワーズ(Arthur Edwardes)総税務司代理を退け、日本人税務司の岸本廣吉を推す日本からの圧力も無視した上で、海関の上級職員でハートのおいでもあるイギリス人、フレデリック・メイズ卿を選んだのだった。エドワーズが広州税務司として国民党と折り合いが悪かったのに対し、メイズはより柔軟で、同じような役職に上海で就いていた際、国民党関係者と良好な関係を構築していた。そして候補を辞退するようにとの圧力がイギリスの外交官たちからあったにもかかわらず、メイズはこれを拒んだのだった。メイズの指名はイギリス人の間で深刻な物議を醸し、就任後も、新総税務司は道義より自らの野心を優先したと考える一部の外国人コミュニティーから敬遠されることとなる。12

自身の総税務司就任式の様子を「叩頭の礼」になぞらえた『スペクテイター』誌の記事に対するメイズの抗議文(1929年2月13日)
[Files on Sending Staff to the Geneva Conference about Japan’s Occupation of Northeastern China, 1933]. 1933. MS Parts Six and Seven: The Sino-Japanese War and its Aftermath, 1931-1949: Mr. L. K. Little Classmark: 679 (9); Call number: 169. The Second Historical Archives of China. China and the Modern World.

 

とは言え、実のところ、国民党は単に、法的に中国政府の一部であるはずの機関に対する政府の権限を再び主張しただけであった。海関は国民党政府の指示に応じるべきで、より多くの中国人職員を主要な屋内職員の職位に昇進させるべきであるという要求は、いかなる基準からみても至って筋の通ったものである。エドワーズ支持者は、批判者が言うところの “上海マインド”(Shanghai mind)、すなわち、中国における外国人特権を死守すべく戦うイギリス人を体現していたとみられるが、彼らは2つの現実を見過ごしていた。1つ目は、外国人特権の撤回に努める中国ナショナリズムの台頭、そして2つ目は、数十年前のようにアジアで権力を誇示するだけの国力と情熱をすでに失っていた、第一次世界大戦後の弱体化したイギリスである。事実、イギリスは、中国における第一の帝国主義勢力としての地位を日本に取って代わられていた。

メイズがおじを手本に目指したのは、中国の機関であると自認する海関だった。海関組織内の歴史家、とりわけ、スタンリー・ライト(Stanley Wright)を支援することにより、中国の偉大な友人というハート神話を積極的に宣伝した。彼の出版プロジェクトには、複数巻から成る海関の文献による歴史記録が含まれている。歴史家のロバート・ビッカーズ(Robert Bickers)が指摘したように、メイズ自身も熱心にプロジェクトにかかわり、その見解に沿うよう注意深く文献の選定も行っている。13 つまり、本データベースに収録されているアーカイブ資料の価値が特に高い理由は、メイズの影響下で選択された編集の産物ではないところにある。

メイズは国民党と密接に連携し、慢性的な資金不足にあえぐ蒋介石政権の重要な収入源となっていた。海関本部を北京から上海に移し(興味深いことに首都の南京ではなかった)、蒋の義兄で、国民党政府の主要な財政責任者である宋子文ともうまくいっていた。また、権限のある職位に有能な中国人職員を昇進させるという圧力にも妥協している。その一方で、地方の軍閥に支配されている領域にある税関事務所においては、対外債務の支払いを終えたら残金を地方当局に引き渡すといった取引も積極的に交わしていたのである。

 

日中戦争・太平洋戦争

1937年7月、日本が全面的な中国侵攻に着手する。メイズは、そのキャリアを通じて、道徳的に極めて柔軟な人物だった。自らの権限を保ち、海関を維持するためであれば、政治勢力との取引もいとわない。ただ、今回ばかりは、その気骨の欠如があだとなってしまったのである。メイズは、1937-1938年、日本と中国の戦争が拡大するなか、被占領地域でも海関を運営し続けていた。戦時中の首都である重慶に本部を移すようにとの命令を無視し、占領下の上海から海関の指揮を執り続けていたのだった。汪兆銘の傀儡政権は真珠湾攻撃を受けて初めてメイズを解雇し、岸本廣吉を総税務司に任命している。

岸本廣吉の総税務司就任(1941年12月11日)
Mr. H. Kishimoto’s Career. 1929-1945. MS Parts Six and Seven: The Sino-Japanese War and its Aftermath, 1931-1949: Customs Leadership in Wartime and Revolution Classmark: 679 (1); Call number: 11381. The Second Historical Archives of China. China and the Modern World.

 

メイズのそうした行動には動機がいくつかあった。まずは、債券保有者に支払いをするという海関の役割に尽力していたのである。また、単一の海関という一体性を維持し、地域ごとに分割されるのを避けるのと同時に、占領下の中国にいる大勢の海関職員を利敵協力の罪から保護したいと考えていた。ただ、それには、日本人を上海の税務司に任命するという日本側の要求に応じるなど、大幅な妥協を強いられた。事態の進展を考えると、いざという時のために、戦争が拡大したら重慶に移るという対応策を立てていなかったのは意外である。事実、この避けられない事態が起きた際、メイズと海関のイギリス人および連合国の外国人は、解雇・抑留されている。1942年、幸運にも捕虜交換により解放されたメイズだったが、驚いたことに、職位を取り戻すべく重慶に向かったのである。しかし、すげなく却下されてしまった。14

1941年末から1945年の終戦までの間、2つの海関が存在した。日本の占領下にある地域では、長年にわたり上位の税務司を務めてきた岸本廣吉が海関を指揮していた。岸本は既存の日本人と中国人職員を支援しようとする一方で、それ以外の外国人を粛清、抑留したため、大勢の日本人を追加で任命する必要が生じていた。国民軍支配下の地域では、海関職員の残党が集められ、その指揮を執ったのがアメリカ人の新総税務司、L・K・リトル(L.K. Little)と、海関で初めて指導的地位に就いた中国人として副総税務司に就任した丁貴堂である。海関は、主要な港からほぼ隔絶していたことから、緊急の消費税を監督する役割を担っていた。

1945年に日本が降伏すると、国民軍は海岸の港を再び占有すべく、アメリカの支援を受けて軍を急派している。また、リトルと丁も海関体制の再構築を急いだ。その頃までには、外国人職員が占める海関は過去の産物と化していた。不平等条約の大部分は失効しており、中国はすでに1920年代末には外国の干渉なしに自国で関税を設定する権利を取り戻していた。第二次世界大戦中にアメリカとイギリスが治外法権を放棄し、終戦を受けて日本からも奪回していた。政府の側も同様に、条約港の各国租界における行政権を取り戻した。総税務司にイギリス人を据えておくことは中国での影響力を維持する上で重要だと考えたイギリスとは異なり、アメリカは海関にほとんど関心をもたず、L・K・リトルへの支援は限定的だった。この混乱期においては、リトルの補佐をしていた丁貴堂の方がより重要な存在だったといえる。

南京の丁貴堂から重慶のL・K・リトルへの通信(1945年8月31日)
Correspondence between I.G. Chungking and D.I.G. Shanghai. 1945. MS Parts Six and Seven: The Sino-Japanese War and its Aftermath, 1931-1949: Planning for Peace and Resuming Functions in Post-War China Classmark: 679 (1); Call number: 31732. The Second Historical Archives of China. China and the Modern World.

 

国共内戦が進展するにつれ、インフレと汚職につきまとわれ、国民党は衝撃的なスピードで崩壊していった。資金不足と深刻な賃金削減にみまわれ、クリーンでしっかりと組織化された行政機関として長く知られてきた海関にも、汚職の嫌疑がつきまとうようになる。リトルは、いざという時のために対応策を練り、命ぜられれば、蒋介石政府とともに台湾に渡る決意を固める一方で、本土での海関運営継続も計画していた。結果的には、1949年にリトルは台湾に渡り、1950年に辞任している。後任に就いたのは海関の中国人税務司であった。一方、丁貴堂は、1949年に共産党と接触し、共産党の勝利後もそのまま職位にとどまることを認めるという周恩来の後押しを受け、革命後もしばらくの間、海関での仕事を続けていた。15

 

なぜ中国海関を研究すべきか

中国海関の政治史に関するこの概略を締めくくるにあたり、海関が重要な機関だった理由、海関資料群の活用が有益である理由、さらには、この一次資料データベースの恩恵を受けられる研究テーマについて考察しておく価値があろう。

第1に、多くの学者が強調しているように、海関の指導層を取り巻く政治的駆け引きは、列強と中国の関係のバロメーターのようなものであった。特にイギリスにとっては、海関におけるイギリス人の存在は中国に影響を及ぼす手段であったし、日本も似たような手段を1930年代と1940年代に試みている。同様に、中国のナショナリズムと抵抗運動も、海関を取り巻く駆け引きのなかで展開していった。

第2に、これは今日に至るまで十分には研究されていない領域であるが、海関がその1世紀にわたる存在を通してグローバル経済と中国との接点のような役割を果たしてきた事実がある。これには貿易と、そして、海関収入を担保とした対外債務と債券発行という意味において、金融の世界とが含まれる。海関の出版物と内部報告書は、中国経済の歴史を探求する上で活用できる豊富なデータの宝庫を提供している。

第3に、海関は数多くの近代的な行政手法を中国に持ち込んできた。特に重要な例を挙げると、アンドレア・ブレアール(Andrea Bréard)が論じたように、海関は徴税と統計出版の近代的実務を中国にもたらした。ほかにも、比較的ささいなタイプライターの導入といった例から、国際貿易を円滑化させた灯台システムの管理に至るまで、海関は中国の経済的統合を促進させる世界的な慣行をもたらしたのである。16

第4に、海関税務司は、中国人官吏と諸外国の代表の双方に通じていた、中国政治の鋭いオブザーバーであり、20世紀には中国のほぼ全域に及ぶ条約港や交易所に在任していた。ハートと彼の後継者は中国国内の政治動向を把握することの重要性に早い時期から気づいていた。海関税務司が2週間ごとに書くことになっていた準公式書簡(Semi-official letters)は、条約港周辺の省や地域の政治に関する素晴らしい情報源である。

最後に、海関資料は中国在住外国人の社会史に関して計り知れない情報を提供してくれる。海関は高度な訓練をうけた専門職員ら水夫長、乗船税関吏に至るまで、外国人を幅広く雇用していた。この豊かな情報源である海関アーカイブから、そういった人々の暮らし、経済状況、世界観の多くを学ぶことができるのである。

 

中国近現代史シリーズ ホーム画面

中国近現代史シリーズのホーム画面

脚注:

1 海関の背景については John King Fairbank, Trade and Diplomacy on the China Coast; the Opening of the Treaty Ports, 1842–1854. (Cambridge: Harvard University Press, 1953) を参照。レイについては Jack Gerson, Horatio Nelson Lay and Sino-British Relations, 1854–1864. (Cambridge: East Asian Research Center, Harvard University, 1972) を参照。
中国海関についての唯一の包括的な歴史研究は Hans J. van de Ven, Breaking with the Past: The Maritime Customs Service and the Global Origins of Modernity in China. (New York: Columbia University Press, 2014)。

2 この出来事については Richard S. Horowitz, “Mandarins and Customs Inspectors: Western Imperialism in Nineteenth Century China Reconsidered.” Papers on Chinese History 7 (January 1998): 41–57 を参照。

3 ハートと総理衙門との関係については Richard Horowitz, “Politics, Power and the Chinese Maritime Customs: The Qing Restoration and the Ascent of Robert Hart.” Modern Asian Studies 40, no. 3 (July 2006): 549–81を参照。引用部分は1864年のハートの有名な通例第8号より。活字化されているハートの日記の以下の2巻は極めて有益な洞察を与えてくれる: Katherine Frost Bruner, John King Fairbank, and Richard J. Smith. eds. Entering China’s Service: Robert Hart’s Journals, 1854–1863. (Cambridge, Mass: Council on East Asian Studies, Harvard University, 1986) および Richard J. Smith, John King Fairbank, and Katherine Frost Bruner eds., Robert Hart and China’s Early Modernization: His Journals, 1863–1866. (Cambridge, Mass: Council on East Asian Studies, Harvard University, 1991)。

4 Van de Ven, Breaking with the Past, ch. 2。この時代のハートによる海関運営についての詳細かつ讃辞に満ちた記録として Stanley Fowler Wright, Hart and the Chinese Customs. (Belfast: Published for the Queen’s University by W. Mullan, 1950) も参照の事。

5 Richard S. Horowitz, “Ambiguities of an Imperial Institution: Crisis and Transition in an Imperial Institution, 1895–1911.” Journal of Imperial and Commonwealth History, 36.2(2008): 283–5。

6 Weipin Tsai, “The Qing Empire's Last Flowering: The Expansion of China's Post Office at the Turn of the Twentieth Century” Modern Asian Studies 49.3 (2015): 895–930 および Weipin Tsai, “The Inspector General’s Last Prize: The Chinese Native Customs Service” Journal of Imperial and Commonwealth History 36.2 (2008): 243–258。

7 以上の2段落は Horowitz, “Ambiguities of an Imperial Institution: Crisis and Transition in an Imperial Institution, 1895–1911.” を要約している。

8 ハートに同情的なこの時代の論評については Wright, Hart, chs. 22–24 を参照。対照的なアプローチとしてはHorowitz, “Ambiguities of an Imperial Institution” を参照。

9 Stanley Fowler Wright, The collection and disposal of the maritime and native customs revenue since the Revolution of 1911: with an account of the loan services administered by the Inspector General of Customs. Second Edition (Shanghai: Statistical Dept. of the Inspectorate General of Customs, 1927), 1–24。

10 van de Ven, Breaking with the Past, 172 からの孫引き。

11 同上186–195。

12 Donna Brunero, Britain’s Imperial Cornerstone in China: The Chinese Maritime Customs Service, 1854–1949. (London; New York: Routledge, 2006): 86–98 および van de Ven, Breaking with the Past, 211–216.

13 Robert Bickers, “Purloined Letters: History and the Chinese Maritime Customs Service.” Modern Asian Studies 40, no. 3 (July 2006): 691–723。

14 Robert Bickers, “The Chinese Maritime Customs at War, 1941–45.” Journal of Imperial & Commonwealth History 36, no. 2 (June 2008): 295–311。対照的な見方については van de Ven, Breaking with the Past, 260–286 を参照。

15 van de Ven, Breaking with the Past, 296–301。

16 Andrea Eberhard-Bréard. “Robert Hart and China’s Statistical Revolution.” Modern Asian Studies 40, no. 3 (July 2006): 605–629 および Robert Bickers, “Infrastructural Globalization: Lighting the China Coast, 1860s-1930s” The Historical Journal 56.2(2013): 431-58。

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引用書式の例:ホロウィッツ、リチャード・S(センゲージラーニング株式会社 訳)「中国海関(1854年~1949年)の紹介」 China and the Modern World: Records of the Maritime Customs Service of China 1854–1949. Cengage Learning KK. 2022

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