池田明史先生にGale収録のチャタムハウス資料についてお伺いしました

 

 

 東洋英和女学院大学   学長

チャタムハウスを通してイギリスの政策の背後にある考え方が見えてきます。

実施日:2015年8月20日 
ゲスト:池田明史先生
機関:東洋英和女学院大学 
協力:紀伊國屋書店 
トピック: Chatham House Online Archive

 

 

自由に意見交換することができることがチャタムハウスの一番の強み

 

先生はチャタムハウスで講演をなさったとお聞きしました。

講演というより、ワークショップです。チャタムハウスの活動は多岐に亘りますが、一番多いのがワークショップです。ワークショップというのは、いろいろな人を招待し、ラウンドテーブルで報告させ、それについて議論する、というスタイルをとりますが、その際にチャタムハウス・ルール(Chatham House Rule)というのがあって、要するに、ワークショップや講演会で発言されたことについて発言者を特定した形で引用してはならない、というルールですが、このルールがあるから参加者は自由に意見交換することができる、というものです。チャタムハウスの一番の強みといってよいでしょう。

 

発言者の名前を伏せた形で引用することは許されるのですか。

背景知識として引用することは問題ありません。どこそこで、このような話を聞きました、というぐらいであれば大丈夫ですが、チャタムハウスの会議でこの人がこういう発言をしたということを外に出してはいけない、ということです。

 

出所を特定した形での引用は不可、ということですね。

そうです。もし、そんなことをやれば、出入り禁止になるでしょう。

 

会議の初めに、「今日は、チャタムハウス・ルールで行きましょう。」というようなことが言われるのですか。

私が何度か参加したときには、チャタムハウス・ルールが適用された形で進行しましたが、外部で公表してよいということが言われなければ、チャタムハウス・ルールが適用されるのが原則になっているはずです。

 

チャタムハウス・ルールでいくことが・・・

前提になっているわけです。

 

例外として、適用されないものもある。

そう、例外的にオープンです、ということが宣言されるわけです。南アフリカのアパルトヘイト撤廃に尽力したデズモンド・ツツ(Desmond Tutu)が講演した時は、オープンにやっていたと記憶しています。オープンに行なう一般講演のようなものもありますが、普通はクローズドなものです。

 

弊社のチャタムハウスのデータベースも、チャタムハウス・ルールの下で行なわれたワークショップや講演も入っています。先生がワークショップに参加されたのはいつですか。

 

チャタムハウス・ルールの下で行なわれたワークショップ。発言者名は黒塗りされている。

1990年代の後半だったと思います。外務省から派遣されました。チャタムハウスとヘブライ大学とパレスチナで日本の中東政策について話すように言われたのです。公式のスピーカーとして派遣されたのは、その時だけです。それ以外は、ワークショップの参加者から招待されて、意見交換する機会は何度かありました。

 

弊社のデータベースの収録範囲は2008年までですから、1990年代の後半ということは、先生の参加されたワークショップの記録が収録されているかも知れませんね。

そうかも知れません。私が派遣された時にチャタムハウスの中東プログラムを統括していたのがローズマリ・ホリス(Rosemary Hollis)です。その前任者がフィリップ・ロビンス(Philip Robins)です。80年代から90年代にかけてイギリスに滞在していた時にも、チャタムハウスにはしばしば足を運んでいましたが、その頃、ロビンスが中東プログラムを統括していました。ロビンスに呼ばれて、中東関係のラウンドテーブルに何度も参加したことがあります。ロビンスがチャタムハウスからオックスフォード大学のセント・アントニーズ・カレッジに移り、ホリスがロビンスの後任になりました。外務省はホリスの招待を受けて私を派遣したのです。

 

チャタムハウスと日本の外務省は緊密な関係を保っている

 

外務省から派遣されたということですが、チャタムハウスと外務省の関係はどのようなものでしょうか。両者のパイプは太いのですか。

太いです。

 

伝統的に、ですか。

伝統的に密接な関係にあります。湾岸戦争の時のイラク大使だった片倉邦雄氏もチャタムハウスでスピーチをしていますし、外務省はシニア・クラスの人をしばしばチャタムハウスに派遣しています。


「日本とエネルギー輸入依存」と題した片倉邦雄氏の記事

 

チャタムハウスは日本のみならず、各国の外務省とのパイプが太いのでしょうか。

どこの国ともということではなく、特定の国ですね。チャタムハウスが設立されたのが1920年、その後、第二次大戦後にはすでに、国際問題のシンクタンクとして世界でもトップクラスの評価を得ていたと思います。アメリカではブルッキングス研究所(Brookings Institution)がトップクラスです。英米との外交関係の中でキャリアパスを形成する日本の外交官-アングロ・アメリカンスクールといいますが-にとっては、チャタムハウスに派遣されることがステータスになるのです。

 

外務省は日本の省庁で、チャタムハウスはシンクタンクです。両者はどのような関係と理解したらよいのでしょうか。

外交官はキャリアアップする過程で、外務省にいるだけでなく、外務省を出てシンクタンクや大学にも一定期間、在籍します。シンクタンクや大学をキャリアパスの中に組み込むことによって、外交官を育成してゆくわけです。もう一つは、国問研(日本国際問題研究所)との関係です。国問研は外務省のシンクタンクで、冷戦の時に東西の戦略問題を研究することを目的にして設立されました。国問研は、外国の幾つかのシンクタンクと太いパイプを持つようになりましたが、その中の一つがチャタムハウスです。国問研とチャタムハウスは毎年、ワークショップを開催しています。イギリスで開催するときは日本から参加者が派遣され、日本で開催するときはイギリスから派遣されるというように、両者は緊密な関係を保っています。

 

チャタムハウスは組織として中立を標榜し、メンバーが個人の資格で政策立案を行なう

 

国問研は外務省のシンクタンクということですが、チャタムハウスは、チャタムハウス自身の言うところによれば、自分たちは独立であると謳っています。チャタムハウスは1920年に設立された後、ロイヤル・チャーター(勅許)を得て、法人格を獲得します。チャタムハウスのホームページに掲載されているロイヤル・チャーターを見ると、「チャタムハウスは国際問題に関して、何らかの見解を表明してはならない(The Institute as such shall not express an opinion on any aspect of international affairs)」という一節があります。普通、シンクタンクは政策を立案するというイメージがありますが、チャタムハウスが言っていることを見ると、政策を立案するというポジションから一歩引いているような印象を受けます。

チャタムハウス自体はそうです。チャタムハウスという組織の名前では政策立案をやらない。ただ、そこに関係している研究者がいます。彼らは個人の資格で政策立案のグループに入っていたり、あるいはイギリスの外務省や国防省と強いコネクションを持っていたりします。チャタムハウス自体は、中立を標榜しなければなりませんが、そこに加わっている研究者は個人の資格で何をしてもよいわけです。

 

チャタムハウスのメンバーが自由に意見表明できるのは、イギリス社会に特有の横のネットワークという基盤があるから

 

自由に発言できるということですね。

そうです。それはどういうことかというと、ここがイギリスらしいと言えるかも知れませんが、イギリスは階級社会です。現在は相当崩れているとはいえ、階級社会の伝統は残っていますし、チャタムハウスが設立された20年代や30年代は今よりも強固に階級社会が形成されていました。一定の階層出身者でないと大学に行くのが困難だったわけですから。パブリックスクールを出て、オックスブリッジやロンドン大学で学び、卒業後は研究者や外交官や官僚や軍人になる。横のネットワークが強いのです。同じ貴族階級や上層中産階級の出自の人々が多いため、同質性が強かったわけです。ですから、チャタムハウスが独立といっても、そのようなインフォーマルなネットワークを前提とした上での独立です。チャタムハウスという組織それ自体としては、政策提言や政党に影響を及ぼすようなことはしないと言いながら、組織を構成する研究者は自分が持つネットワークを使って自由に意見を表明してください、ということです。

 

中立を標榜していても、組織を構成する研究者が様々な意見表明を行なう中で、結果的に、組織として何らかの色合いを帯びることはあると思います。先ほど名前の挙がったブルッキングス研究所も、中立を標榜していますが、一般的には民主党系と言われています。その辺り、チャタムハウスはどうなのでしょうか。

それを特定するのは難しいですね。ただ、リベラルはチャタムハウスの一つの旗印だと思います。チャタムハウス・ルールのようなものが出てくるのも、そのようなところから来ているのだと思います。アメリカのようなはっきりとした党派性ではなく、チャタムハウス自体のものの見方や考え方が、リベラルな方に傾いているということは言えると思います。でも、イギリスではコンサーバティブと言われる人たちの思考の土台にはリベラルの考え方があります。

 

ということは、アメリカのシンクタンクと違い、保守党や労働党といった特定の政党との関係はほとんどないということですね。

組織を構成する個々の人々がどの政党と関わりを持っているかということには、組織として関与していない、ということだと思います。

 

チャタムハウスを構成する個々のグループの間で、政策の方向性に相違が生じることはないのでしょうか。

私が関わっていた中東に関して言えば、中東プログラムを統括していたフィリップ・ロビンスとローズマリ・ホリスの間には、中東和平にコミットすべきか、もっと距離を置くべきかという問題をめぐって、大きな見解の相違がありました。それは研究者の個性であって、それを組織として掣肘することはないと思います。それでも、一番トップの理事長には政治力のある人物を置きます。私が最初にチャタムハウスに行った時の理事長は、フォークランド紛争の時に艦隊を率いた元海軍提督です。ただ、理事長が常に特定の政党の支持者かというと、そんなことはありません。

 

チャタムハウスのデータベースには、チャタムハウスが発行している書籍や雑誌が収録されていますが、各書籍や雑誌の前付の部分に必ず「この論文で表明されている見解はチャタムハウスのものではない。」と断り書きが掲載されています。

組織ではなく、著者の見解ということですね。それは当然でしょう。

 

チャタムハウスは議論の場を提供するフォーラム

 

ここで言われていることにチャタムハウスは責任を負うものではない、と。

チャタムハウスの機能はフォーラムとして理解するのが良いでしょう。最も信用されるフォーラムになるということが目的だと思います。

 

チャタムハウスはミッションの一つとして、「オープン・ディベート」を掲げています。

 

議論の場を提供することをミッションの一つとして掲げているわけですね。

 

そういうことだと思います。

 

先生がチャタムハウスで経験なさったことで、凄いなとお感じになったことはありますか。チャタムハウスはシンクタンクとしても高く評価されています。世界のシンクタンクをランキングするシンクタンク・レポートというのがありますが・・・・・

ペンシルバニア大学が作成しているものですね。

 

チャタムハウスには誰もが臆せず自由に話すことができる独特の雰囲気がある

 

そうです。それによると、ブルッキングス研究所が1位で、チャタムハウスが2位とランキングされています。その評価を齎しているチャタムハウスの凄さは、先生から見て、どこにあると思いますか。

どのような世界の要人がいても、誰もが臆せず話すことができる独特の雰囲気があります。あれは凄いと思います。世界が注目する有名な政治家が参加するワークショップがあったとして、そこに若手のジャーナリストや研究者がいても、一切頓着することなく対等に話すことができ、自由に質問もでき、反論もできる。もちろん、一定の礼儀が求められますし、不適切な質問をすれば、次は呼ばれなくなります。チャタムハウスで議論することが自分たちの物の見方に影響するわけですから、その機会を奪われたくはないと皆思う。ですから、それなりに自制を働かせるようになります。やはり、伝統あってのことでしょう。歴史の浅いシンクタンクや研究機関ではそうはいかないでしょう。

 

先生の専門は中東ですが、中東とチャタムハウスの関わりという場合、エポックになった時期はいつ頃ですか。

 

チャタムハウスに注目すれば、国際政治や安全保障の認識枠組が理解できる

 

エポックになった時期があるわけではなく、設立された当初から一貫して、チャタムハウスと中東の関わりは深かったと思います。チャタムハウスが設立された頃、イギリスはまだ世界帝国を維持していて、第一次世界大戦直後の、アラビアのロレンスたちが活躍していた頃です。基本的には、大英帝国の植民地政策と密接に関係していたと思います。チャタムハウスにとっては、設立当初から中東が重要な地域だったという印象を私は持っています。それから、国際政治におけるイギリスのポジションがスエズ動乱の頃から変わります。イギリスがもはや帝国でなくなったことを明らかにしたのが1956年のスエズ動乱です。イギリスに変わって、アメリカとソ連の中東におけるプレゼンスが大きくなった。ですから、スエズ動乱が時代を画したといってもよいかも知れません。これによってイギリスは撤退戦をしなければならなくなりました。最終的には1975年頃までに、スエズ以東からすべて軍を引き上げることになります。戦争で一番大変なのは撤退戦です。その後、イギリスはアメリカに国際政治の主役の座を譲って、アメリカの別動隊になるわけですが、歴史上の役割転換をいかにスムーズに実行するかというのが、大きな問題であって、そのためのブレインストーミングの場を提供したのがチャタムハウスだったのではないかと思っています。今のアメリカの中東政策を見ても、アメリカの政策が目先の利害を優先する傾向になるのに対して、イギリスの政策は歴史的な文脈の中で判断するところがあって、国際問題を歴史的文脈の中で把握した上で政策に結びつける議論の場を提供したのがチャタムハウスの果たした重要な役割の一つだと思います。似たような役割は、同じくロンドンにある国際戦略研究所(International Institute for Strategic Studies, IISS)も果たしていて、IISSは国際関係というよりは安全保障や軍事戦略をテーマにしている研究機関です。イギリスのシンクタンクや研究機関の中では、チャタムハウスとIISSに注目していれば、国際政治や安全保障の認識枠組が理解できると思います。

 

中東といえば、2000年以降ではイラク戦争が大きな出来事でした。2003年にイラク戦争が始まる直前ですが、チャタムハウスはシンポジウムや講演会を数回に亘って開催しています。開戦直前のシンポジウムの記録もデータベースに収録されていますが、保守党と労働党の議員を招き、開戦の是非についてスピーチさせています。イギリスは当時ブレア率いる労働党政権で、アメリカの同盟国としてイラクに軍を派遣するわけですが、ブレアのお膝元の労働党の議員はイラクへの軍事侵攻に反対、保守党の議員は賛成の立場なのです。司会者がスピーチの始まる前と終わった後で聴衆に対して、イラク戦争に賛成か反対か尋ね、スピーチの前後で賛成の人と反対の人の数が変わっていました。イラク戦争のような大きな出来事が起こるときに、チャタムハウスがフォーラムの役割を果たしている、というのがよく分かります。

 


2003年2月に行なわれた「対イラク軍事侵攻を行なうべきか」と題したシンポジウムの記録

 

私はそのシンポジウムのことは知らないので何とも言えませんが、アメリカのシンクタンクとチャタムハウスやIISSの大きな相違は、戦争をやった後、どのように事後処理をするのか、問うか問わないかということです。イラク戦争を例に挙げると、イラクに侵攻してサダム・フセインを倒すことはできるでしょう。でも、フセインを倒した後のイラクをどう再建するのか、ということが重要です。あの地域の国境線を引いたのはイギリスですから、問題の複雑さをイギリスはよく分かっているはずです。サダム・フセインという箍を取り外せば、何が起こるかということは分かっているわけです。実際、箍を外した結果、イラクは混乱に陥りました。アメリカの議論を聞いていると、サダム・フセインを倒した後のことは考えていません。チャタムハウスがイラク戦争の時に討論をしているとすれば、フセインを倒した後の問題に関する議論がなされていたはずです。イラク戦争開戦時に私はオックスフォード大学のセント・アントニーズ・カレッジにいましたが、彼らはそのことを頻りに論じていました。

 

元首クラスの要人を簡単に招聘することができるのがチャタムハウスの強み

 

チャタムハウスと中東との関わりの中で、チャタムハウスに招待された中東の要人が多数いると思いますが、どんな人が挙げられますか。

多分、チャタムハウスに呼ばれてスピーチしている人々の中には、中東各国の元首もいると思います。ヨルダンのフセイン国王とかイスラエルのラビンやペレスといった首相経験者です。アラファトは行っているかなぁ。いずれにしても、これら元首クラスの要人を簡単に招聘することができるのがチャタムハウスです。そういう要人がスピーチするとき、誰をラウンドテーブルに呼ぶかで、チャタムハウスもかなり苦労するのだと思います。

 


イスラエルのシモン・ペレスの講演の記録

 

第一次世界大戦以後の中東情勢の歴史を充分に理解するためには、歴史的に中東に深く関わったイギリスの政策に関する知識が不可欠ということですね。

世界中からどんな要人を呼ぶにしても、彼らと議論するのは半分以上がイギリス人です。彼らイギリス人の知識基盤が大きいと思います。

 

かつて植民地として支配していた地域から知識人を招聘できるのが凄いところ

 

それだけの要人を招聘できるのも、歴史的な繋がりがあるからですね。

そういうことです。チャタムハウスのステータスのなせるわざです。かつて植民地として支配していた地域から第一級の知識人を呼ぶことができるというところが凄いことです。中国や韓国や台湾やインドネシアから国家元首や知識人が来てスピーチし、そのことで彼らの経歴に箔が付くシンクタンクが日本にありますか。残念ながら、ありません。

 

チャタムハウスが設立されたのは1920年、ブルッキングス研究所も同じ頃に設立されました。シンクタンクのような機関の登場は20世紀的現象ということができると思いますが、シンクタンクが登場した歴史的背景についてはどのようにお考えですか。

あまり詳しくはありませんが、幾つかの類型があると思います。政策提言型のシンクタンク、それから学生を持たない大学院大学など、です。オックスフォード大学には学生がいないカレッジがあります。オールソールズ・カレッジ(All Souls College)です。オールソールズ・カレッジはシンクタンクではありませんが、シンクタンクと呼ばれてもおかしくない機関です。研究者しかいないのに、オックスフォード大学のカレッジの一つです。オールソールズ・カレッジに招聘されることは研究者にとっては大変名誉なことです。でも、オールソールズ・カレッジはシンクタンクとは呼ばれません。シンクタンクのような機関が登場したのは、職業の機能分化が進んだ結果なのかも知れません。元々の日本のシンクタンクは国の政策を正当化するためのものです。完全に民間のシンクタンクは別ですが、欧米のシンクタンクをモデルにしたシンクタンクは、まず国家の政策があり、この政策の理論的基礎を提供するのが一つの大きな役割です。これに比べると、チャタムハウスをはじめとする欧米のシンクタンクは、ブレインストーミングから始まり、そこでの議論が結果的に国家の政策に影響を与えるという点で、日本とは逆の関係にあります

 

チャタムハウスのデータベースはイギリスの政策立案過程を知るために有効

 

チャタムハウスのデータベースをお使いになるのは大学の先生ですが、データベースに収録された資料をイギリスの政策が立案された経緯を伝える資料として使うことができるということになるのでしょうか。

そういうことでしょうね。イギリスの政策の背後にある様々なものの見方、考え方が集約されているわけです。それを知ることによって、なぜ特定の政策が採用されたのか、クリアになるということです。

 

現状分析では予測が外れたときの方が結果的に得るものが大きい

 

なるほど、よくわかりました。お蔭様でチャタムハウスのイメージがくっきりしてきました。ところで、先生は普段どのようなデータベースをお使いになっていますか。

イスラエルにあるハレアツ(Haaretz)という新聞のデジタル・アーカイブはよく使っています。私は出身がアジア経済研究所で、アジア経済研究所の動向分析部からスタートしました。動向分析というのは対象国の新聞をひたすらチェックするのが仕事です。配属されたのはイラン革命が起こった年で、専らイラン革命の分析を行なっていました。その後、イラン・イラク戦争が勃発し、戦況分析をやりました。分析するには新聞しか材料がないのです。それからFBIS(Foreign Broadcast Information Service)といって、アメリカのCIAがイランやイラクの放送を傍受して、その放送を英語に翻訳したテキストを提供するサービスですが、よく使っていました。現地の新聞というのは、戦況に関しては嘘ばかりです。どのような嘘をついているかが分析の対象になるわけですが。歴史家が使う資料やデータベースは使いません。私がやっているのは現状分析ですから、事実やデータを集めるのが中心です。データの収集について言うと、データの取捨選択は自分でやるしかありません。人間には見たいことしか見ない傾向がありますが、この期待的幻想に基づいてデータを収集すると、結局間違えるのです。学生にもよく言っていますが、自分の予測が当たったときと外れたときで、どちらが自分のためになるかというと、外れたときです。外れたときは外れた原因を分析することができます。そのときにデータを使うのです。自分が採用しなかったデータ、捨てたデータを事後的に検証することで、外れた原因を分析するのです。

 

今日はどうもありがとうございました。

 

 

※このインタビューを行なうに際して、紀伊國屋書店様のご協力をいただきました。ここに記して感謝いたします。

ゲストのプロフィール

池田明史先生 (いけだ・あきふみ)

最終学歴:

東北大学法学部卒業(英国オクスフォード大学およびスターリング大学留学)

略歴:

アジア経済研究所研究員、イスラエル国ヘブライ大学客員研究員、オクスフォード大学中東研究所客員研究員等を経て、現在(2021年)、東洋英和女学院大学学長

著書:

  • (編著)『イスラエル国家の諸問題』(アジア経済研究所, 1994年)
  • (編著)『中東和平と西岸・ガザ:占領地問題の行方』(アジア経済研究所, 1990年)
  • (編著)『現代イスラエル政治:イシューと展開』(アジア経済研究所, 1988年)
  • (共著)『中東政治学』(有斐閣, 2012年)
  • (共著)『イスラエルを知るための60章』(明石書店, 2012年)
  • (共著)『大量破壊兵器不拡散の国際政治学』(有信堂高文社, 2000年)ほか

現状分析論文多数