石和田昌利先生にGALE収録の資料についてお話を伺いました

 

 東洋大学文学部英米文学科 教授

料理やガーデニングなど、 さりげない話題が面白い

実施日:2014年9月24日 
ゲスト:石和田昌利先生
機関:東洋大学
協力:紀伊國屋書店 
トピック: The Listener Historical Archive

 

 

D.H.ロレンスからフォースターへ

 

先生のこれまでのご研究の歩みを簡単に振り返っていただけますか。

学生の時、指導教授をはじめ周囲にD. H. ロレンスを研究する人が多かったものですから、自然にロレンスを卒論のテーマに選びました。大学に入学した時は歴史をやるつもりで、ヘンリー8世の離婚事件のような家庭的な恋愛絡みのこと(笑)に関心があったのに、イデオロギー中心の歴史研究が流行っていたため、歴史研究から文学に関心が移りました。アメリカ文学や英語学の先生たちは私のことを、将来、英和辞典を編集するか、アメリカ文学のマッチョな男らしい作品(笑)をやると思っていたと思います。ところが、ロレンスのような文学作品を読んで研究すると言い始めたので、驚いてしまったようです。大学院生のときにお世話になった先生は現代詩を研究していたため、リスナー誌に出てくる現代詩人の作品も読んでいましたが、ロレンスを読んでいくうちに、自分の本質はロレンスではない、と次第に気づいてきました。おそらく、ロレンスは私のような人が一番嫌いです(笑)。ジョイスには多分無視されるでしょう(笑)。ブルームズベリー・グループに関心を持つようになるにつれて、ロレンスからフォースターにテーマが変わりました。それから、ブロンテ姉妹やジェイン・オースティンら女性作家を取り上げることが多くなっています。こうやって振り返ると、19世紀と20世紀の典型的なイギリス小説を辿ってきたということになります。ロレンスからフォースターに関心が移ったとは言っても、『ロレンス文学鑑賞事典』(彩流社)など、ロレンスに関する共著は幾つか出しています。『ロレンス文学鑑賞事典』は日本で出版されたロレンス研究書の紹介を担当しました。だから今でも私にロレンスの研究書を送ってきてくださる人がいますが、現在はロレンスからは離れています。

 

ロレンスからフォースターへ関心が移ったということですね。

ロレンスとフォースターは関係があるのです。ロレンスとフォースターはどちらも20世紀になってもイギリスでは支配的であった精神性を重視する道徳観に反発する作品、つまり、性を扱った作品を書いているからです。更に、ロレンスとフォースターはブルームズベリー・グループで顔を合わせたことがあり、フォースターはロレンスの才能を認めていました。ご存知のように、イギリスのチャタレイ裁判の最終弁護人はフォースターです。ブルームズベリー・グループについて言えば、ヴァージニア・ウルフにも触れたいところです。ウルフは、1919年に発表した”Modern Fiction” (『現代小説』)や1924年5月18日にケンブリッジ大学内の文学団体「異端者会」の会合で講演の形式で読まれた”Mr. Bennett and Mrs. Brown” (『ベネット氏とブラウン夫人』)という小説論で「私たちの作品はあなたたちの作品とは違う」と言わんがばかりに、同時代の作家をエドワード王朝の作家とジョージ王朝の作家に分類し、エドワード王朝の作家と呼ばれる1910年頃までに活躍した3人の小説家を批判しています。エドワード王朝の作家とはH. G. ウェルズ、ジョン・ゴールズワージー、アーノルド・ベネットの3人です。特に、ベネットのことを念頭に置いた発言です。ウルフは彼ら3人を、人間を外面からしか描かない「マテリアリスト(Materialist)」と非難したのです。これに対して、ウルフはジョージ王朝の作家は人間の内面を描く小説家であることを主張しています。ウルフは、自分以外に、ジェイムズ・ジョイス、D. H. ロレンス、E. M. フォースターという小説家をジョージ王朝の作家に考えていました。この点においてもロレンスとフォースターは同じ陣営にウルフによって入れられた者同士です。ウルフには、夫のレナード・ウルフと共同経営していたホガース・プレスに投稿してきた若い作家も念頭にあったかも知れません。投稿者の中で最も有名な小説家は、キャサリン・マンスフィールドです。

 

フォースター研究にとって、 リスナー誌に掲載された書評や批評を無視することはできません

 

E. M. フォースターとリスナー誌にはどのような関わりがあったのでしょうか。

フォースターは1930年頃から1970年頃までリスナー誌に掲載される書評や批評を書き続けていました。ですから、フォースター研究にとって、リスナー誌に掲載された書評や批評を無視することはできません。

 

 

長編小説を書かなくなった1930年以降のフォースターを考える上でリスナー誌は重要な資料

 

フォースターの研究者にとってリスナー誌はどのような存在なのでしょうか。

それはフォースターとリスナー誌の関わりの核心です。フォースターの長編小説を年代順に辿ってみます。”Where Angels Fear to Tread”(『天使も踏むを恐れるところ』)が1905年、”The Longest Journey”(『ロンゲスト・ジャーニー』)が1907年、”A Room With A View”(『眺めのいい部屋』)が1908年、”Howards End”(『ハワーズ・エンド』)が1910年、出版は1971年ですが” Maurice”(『モーリス』)が完成したのが1917年、 ”A Passage to India”(『インドへの道』)が1924年です。この後、フォースターは長編小説を書いていません。小説論である”Aspects of the Novel”(『小説の諸相』)が1927年です。短編小説を意欲的に発表した期間が1905年から1928年までです。フォースターは長生きで、1879年に生まれ1970年に亡くなりました。ですから、1930年頃から亡くなる1970年までの40年間、フォースターは何をやっていたのか、というのがフォースター研究者にとっての大きなテーマで、最近のフォースター研究書の中でもこのテーマは多く扱われています。ここには二つの解釈が成り立ちます。一つは小説という文学形式に限界を感じ、小説よりもエッセーという形式で自分の考えを直截に表現した方がよいと考えた、という解釈です。この路線を進んだ作家にはオールダス・ハクスリーがいます。もう一つの解釈は、フォースターの同性愛に関連します。フォースターは同性愛が露見するのを非常に怖れていました。同性愛の罪で逮捕されたオスカー・ワイルドの事件の記憶がまだ新しかった頃です。フォースターは女性を上手に描くことができないという評価を一時期受けたことがあります。でも事実は逆で、上手に描けないのは男性の方なのです。それを示しているのが、『ハワーズ・エンド』の異稿である”Arctic Summer”(『北極の夏』)です。フォースターが1910年から着手したこの作品の改訂版の原稿を発表するのは1963年です。男性の兄弟が二人で家探しをします。でも、フォースターはうまく書くことができませんでした。『ハワーズ・エンド』では女性の姉妹二人が家探しをします。今度は、うまく書くことができました。フォースターは、『ハワーズ・エンド』を完成した後も、再度『北極の夏』に取り組みますが、結局は完成できませんでした。初期の短編小説でも、男性の友情として描いているようで、見方を変えれば同性愛を匂わせている部分があります。男性の友情を描いても、同性愛を匂わせてしまうので、同性愛作家として非難されるのが怖いのです。だから、フォースターは小説から離れ、逃げ場として批評や書評の世界を見出しました。こういう解釈です。フォースターは用心深い作家です。1936年に” Abinger Harvest”(『アビンジャー・ハーベスト』)を、1951年には” Two Cheers for Democracy”(『民主主義に万歳二唱』)という批評集を発表しています。さらに、旅行記なども書いています。自分自身を登場人物とする小説のようなスタイルの旅行記です。旅行記にはフォースターが最も得意とする異文化との出会いが描かれます。フォースターが日本で多くの読者に受け入れられたのは、異文化との出会いというテーマを作品の中で強く打ち出しているからです。他国へ行き、異なる価値観に出会い、それに適応したり葛藤したりする登場人物を描きます。土地が人間を変えるということを作品の主題に据えました。同性愛を異性愛とは別の価値観として、異文化との出会いというテーマの中で考える解釈もあります。このように、1930年以降のフォースターを考える上でリスナー誌は重要な資料であると言うことができます。

 

リスナー誌はラジオ・テレビ番組のスクリプトと番組評が記事の多くを占めています。フォースターはラジオ番組に出演したのでしょうか。

ラジオ番組に出演しマイクの前で話していたかどうかは分かりませんが、インタビューを受けていたのは事実です。フォースターと放送文化を考える上で非常に面白いエピソードがあります。80歳の誕生日の時に、BBCのインタビューを受けました。どのような作家人生だったのか訊かれたフォースターは答えています。「思ったほど書けなかった。執筆の動機は、第一に金儲け(笑)。第二に尊敬している人に褒めてもらいたかった。そして間違いないことは、私は偉大な作家ではない」と。果たしてこれを真面目に受けてよいのかどうか。日本でも小野寺健さんを始め、多くの研究者が気付いています。フォースターは、真面目に読み過ぎない方がよい。真面目に読み過ぎると、フォースターからからかわれる(笑)、と。ですから、フォースターがマイクの前で話をしていたかどうかということは、これからListener Historical Archiveを使って調べてみようと思います。ラジオの前で話したと言えば、ジョージ・オーウェルが有名です。それからディラン・トマス。彼は”Under Milk Wood”(『ミルクの森で』)というラジオ劇を書きましたし、声優としての才能も持っていました。顔はパッとしませんが(笑)

 

リスナー誌と言えば、『インドへの道』刊行25周年のインド紀行文に触れないわけにはいきません

 

フォースターがリスナー誌に寄稿した記事の中で、特に興味深い記事があれば教えてください。

それについては、触れないわけにはいかない記事があります。『インドへの道』を発表した25年後にインドを再訪しますが、その時の紀行文です。「リスナー誌といったらこの記事!」と言われているくらい、有名な記事です。放送文化と作家と言えば、ジョージ・オーウェルですが、リスナー誌の記事と言えば、『インドへの道』刊行25周年のフォースターのインド紀行がまず挙げられます。

 


それはフォースター関係の記事の中で有名というだけでなく、リスナー誌の記事全体の中で有名ということですか。

リスナー誌の記事全体の中で有名ということです。リスナー誌の読者にとっても多くの意味を持った記事です。第二次大戦が終わり、交通手段が発達し、海外旅行が比較的容易にできるようになります。そのような時代背景の中で、インドの紀行文を掲載するということは、リスナー誌の読者やBBCの視聴者の中にインドへ行ってみようという気持ちを喚起することになったと思います。

その記事が発表されたのはインド独立後ですね。

独立後です。それ故に、独立前のものが多く失われました。フォースターが描いたインドは独立後のインドとは大きく異なります。『インドへの道』の登場人物はイスラム教徒です。現在もインドとその周辺地域では宗教をめぐる紛争が続いています。対立する価値観は結合できるのか。『ハワーズ・エンド』の冒頭に”only connect . . .”(ただ結びつけるだけ・・・)というエピグラフを掲げています。結び付けて対立する価値観が結合するのが最高の状態である、と。では、西洋人と東洋人、キリスト教徒とイスラム教徒、支配民と被支配民は融和することができるのか。フォースターの見たインドは本当のインドだったのか。エドワード・サイード以来のポストコロニアル批評では、西洋人の見たインド、東洋人の見たインド、インドに生まれ育った人が見たインドは相互に異なるということが強調されます。フォースターはヨーロッパ人として限界があったのではないでしょうか。ポストコロニアル批評という視点からも興味深いテーマだと思います。『インドへの道』に対しては、支配する者が支配されるものを見下す視点から書かれているのではないかとの評価も、そうでないという評価もあります。そういう様々な評価を引き起こした記事として、リスナー誌のインド紀行を取り上げないわけにはいきません。

 

リスナー誌はBBCの放送番組についての唯一の記録資料であるとともに、定評ある書評を掲載し、20世紀の作家に作品発表の場を提供した文芸誌

 

フォースターから少し離れ、リスナー誌について質問させてください。リスナー誌は、一般にはもちろん、研究者の中でも、イギリスの文学、文化、歴史の研究者以外には、あまり知られているとは思われません。学生などリスナー誌を知らない人にリスナー誌の特徴を分かりやすく伝えるとすれば、どのようなご説明なさいますか。

BBCの放送番組を保存することを目的として発行された高級週刊誌で、BBCの放送番組についての唯一の記録資料であるとともに、定評のある書評を掲載し、20世紀の作家に作品の発表の場を提供した文芸誌です。ですから、一般の人には馴染みがありません。

 

20世紀には他にも多くの文芸誌が発行されていましたが、それらの中でもリスナー誌は重視されていたとお考えですか。

リスナー誌と同様にBBCから創刊されたラジオ・タイムズが大衆化していったのに対して、リスナー誌はBBCという母体をバックに知的オーディエンスを読者層とする高級紙としてのポジションを維持しました。日本でも英米文学関係の雑誌で現在はデジタル版のみで発行されているものがありますが、この雑誌はあくまで英米文学研究者だけを読者層に据えています。

 

それは『英語青年』(研究社)のことですか。

『英語青年』です。私の自宅には、購入を始めた時からすべての巻があります。

 

リスナー誌は日本で言えば『英語青年』のようなものとイメージすればよいのでしょうか。

そうです。日本で言えば『英語青年』です。

 

作家になりたいという意欲と野心を持っていた人がリスナー誌のコアな読者層

 

リスナー誌がとてもイメージしやすくなった気がします。先ほど、ラジオ・タイムズが大衆化したのに対して、リスナー誌が知的オーディエンスを読者層にしていたとのお話がありましたが、知的オーディエンスというと具体的にどのような人々ですか。

イギリスは階級社会の名残を残している国ですが、ミドルクラスの中のミドル以上の階層を対象にしていたということができるのではないでしょうか。それから、意欲のあるローワー・ミドル階層、作家になりたいと思っている労働者階級も、しがみつくようにリスナー誌を読んでいたと思います。逆に、アッパー・ミドル以上の階層は読んでいる振りをしているだけだった(笑)、かも知れません。T. S. エリオットがリスナー誌に何か書いたから、読んでおかないと今度クラブに行った時に話についていけないから、というのが実情ではなかったかと思います。もちろん彼らは教育があるから読んで理解できたと思いますが、真剣に読んでくれたのかどうかは疑問です。作家になりたいという意欲と野心を持っていた人がリスナー誌のコアな読者層だったと思います。

 

文学に関心を持つ人ならば読んでいなければおかしいと見做された雑誌、ということですね。

必ずしもそうではないと思います。雑誌を定期的に購読するということは、D. H. ロレンスのような貧困状態にあった作家にはまずありえませんでした。今日パンを食べられるかどうか不安を抱えている人に、リスナー誌のような高級感あふれる雑誌が定期購読することができたとは思えません。それでも、野心のある人は読んでいたと思いますし、経済的に読む余裕がなくても読みたいと思っていたでしょう。逆に、アッパー・ミドル以上の人々は、立場上定期購読しているが、実際はそのまま書棚に並べているだけだった方もいらっしゃる、と思います。

 

リスナー誌は新人作家の発掘にも大きいな役割を果たしたと言われています。リスナー誌から有名になった作家としては、どんな作家がいますか。

リスナー誌が新人作家の発掘に大きな役割を果たしたという言い方には、違和感があります。成功した作家は、リスナー誌がなくても成功したでしょう。リスナー誌にわずかだけ、名前が取り上げられた作家は、たいしたことがない作家なのです(笑)。むしろ、リスナー誌のインタビューなどを通じて、リスナー誌を利用しながら有名になった作家については名前を挙げることができます。まず、1950年代の”Angry Young Men”(怒れる若者たち)。彼らはリスナー誌を媒体に世に出ました。アイリス・マードック、キングズリー・エイミス、ジョン・ウェイン等です。それから、1960年代のウラジーミル・ナボコフ、1970年代のイアン・マキューアン。リスナー誌を利用したと言う方をすれば、投稿者である詩人たちのグループが特にそうです。一人挙げるとすれば、フィリップ・ラーキンでしょう。放送文化が作家を育てた側面は確かにあります。しかし、それをリスナー誌だけに限定することは出来ません。

 

書評は特定の文献の過去と現在の評価を比較する上での重要な資料

 

先ほど、リスナー誌の書評について言及されましたが、リスナー誌は書評が充実しています。しかしそれらの書評は、掲載されてから何十年も経過しています。過去の書評を読む意義はどんなところにありますか。

それは大きな意義があります。作家の作品や研究書が刊行されたとき、それらについての書評が出ます。そして、その書評をまとめた本が必ず出版されます。作品が発表されたとき、どのように受け入れられたのか、また研究書についてはどのような評価が下されたのか、が分かります。作品については評価が大きく変わることがあります。研究書の評価はもっと激しく変わります。たとえば、ジェンダー研究によって過去の伝記的研究が批判されるといったようなことです。作家についての定説を確立したのがこの研究で、そのような評価の形成を促したのがこの書評であるというように、書評は研究書の評価に大きな影響を与えます。書評は特定の文献の過去の評価と現在の評価を比較する上での重要な資料です。シェイクスピアの”Hamlet”(『ハムレット』)の研究文献は、個人では読み切れないほど膨大に存在します。しかし、すべて読まなくても、研究の流れを俯瞰してくれる書評があります。誰がいつ何について書いたのかという書評の情報だけでも、実証的な研究に役立ちます。

 

書評は研究の流れをフォローするのに役立つということですね。

研究の流れです。それから、実際にどんなテーマでどのような論文が書かれていたのかというファクト情報です。

 

リスナー誌に最も近いのが、イギリスではTLS、日本では『英語青年』

 

書評と言えば、弊社では、タイムズ・リテラリー・サプルメント(TLS)を創刊号からデータベースとして提供しています。

雑誌としてリスナー誌に最も近いのは、イギリスではTLSであり、日本では『英語青年』です。この二つは外すことはできません。東洋大学英米文学科はTLSをかつてすべて保存していましたが、場所の余裕がなくなり、やむなく廃棄しました。これからはデジタル版に代替してゆく必要があるかも知れません。

 

過去の書評の意義については今のお話でよく分かりました。リスナー誌の発行機関であるBBCについて質問させてください。先ほども指摘しましたが、リスナー誌の記事の大部分はラジオ・テレビ番組のスクリプトと番組評です。20世紀のBBCの放送番組の資料が得られることは、英文学や英国文化の研究者にとってどのような意味を持ちますか。

 

リスナー誌には作品を正確に読むためにも有益な記事がたくさん収録されています

 

イギリス文化を追体験できるという点では大きな意味があります。おそらく「パノラマ」という有名な番組も入っているでしょう。でも私は、「パノラマ」にはあまり期待していなくて、むしろ、さりげなく掲載されている生活欄の方に興味があります。今日の料理とか(笑)、催し物、旅行、ガーデニングについての記事から英国文化を知ることができます。昔の調理器具は変わってしまい、料理を作るのにも手間をかけていたことが忘れられています。キャサリン・マンスフィールドの作品では料理が大変おいしそうに描かれていますが(笑)、それが出来上がるまでにどれほど時間と手間をかけたのかが、当時の料理の記事を読むことで追体験することができます。その意味で、リスナー誌には作品をより正確に読むためにも有益な記事がたくさん収録されています。

 

料理やガーデニングなど、さりげない話題が面白い

 

文学作品に登場する食卓のシーンを読み解く参考にもなるわけですね。リスナー誌は、第二次世界大戦中、料理のレシピをコラムで掲載し、物資が欠乏する市民生活に役立つ情報を提供したことでも知られています。

そうですね。第二次大戦中は疎開した児童向けの教育番組を提供していたようですね。ただ、そういう特殊な状況ではなくても、さりげない話題が面白いです。料理でもガーデニングでも、当時はこんな手順を踏まなければできなかったということが分かる面白さです。


 

20世紀は映像と放送の時代です。文化の中で活字メディアのウェートが相対的に弱まりました。活字で作品を作る作家が放送という新しいメディアとどう向き合ったのか、リスナー誌を通じて見えてくるのではないかと思いますが、いかがでしょうか。

リスナー誌というよりは、放送文化ですね。リスナー誌はデジタル化されても、文字媒体の資料です。放送番組としては、ディラン・トマス等の放送劇があり、ルイス・マクニースやポール・マルドゥーンのようなBBCの社員だった作家もいます。フォースターは”The Machine Stops”(『機械が止まる』)というSF短編小説を書いています。人間は地下に住んでいて、家は六角形の蜂の巣のような形をしています。誰もが結婚はせず、一人一人が六角形の蜂の巣状の家で生活しています。スイッチを押すだけで眼の前にディスプレイやキーボードが現われ、世界中の人々とネットワークでつながる世界です。部屋の中にいるだけで食事も自動的に用意されるのです。そのような未来をフォースターは予想していました。そういう未来を実現したいという欲望もあったのだと思います。このような作家にとって新しいメディアへの関心は高かったのだと思います。

 

その作品が書かれたのはいつですか。

フォースターが小説を書かなくなる前ですから、1930年より前です。重要なことは、1909年というその作品の出版年ではなく、リスナー誌が創刊されるより前、フォースターがリスナーに係わる前に書かれた作品だということです。

 

未来を描く作品では、しばしば地下世界が登場しますね。

よく出てきます。SFの古典H. G. ウェルズの”The Time Machine”(『タイム・マシン』)がそうです。人間のエロイの住む地上世界と人間を捕食するモーロックの住む地下世界という二元世界です。フォースターのSFも同じ構図です。

 

BBCはイギリスの公共放送です。日本で言えばNHKですが、BBCがイギリス人の知的生活の中で果たしている役割とNHKが日本人の知的生活の中で果たしている役割は、どのくらい異なるのでしょうか。

BBCとNHKは似ていると思います。報道、教養番組、それから家族で見られるホームドラマが大きな比重を占めている点において似ています。他方で、NHKはバラエティー番組が増え、民放化しているのに対して、BBCは自制しています。権威を守っていると言えば格好いいですが、社会や視聴者に迎合できない(笑)、という面があります。ここはリスナー誌に似ています。分からない人は見ていただかなくて結構、分かる人だけ読んでください、という姿勢です。

 

高踏的ですね。

そこまで言い切れないかもしれませんけどね。

 

Listener Historical Archiveを使って、どんなことを調べてみたいとお考えですか。

第一に、1930年から1970年までのフォースターの記事を詳細に調べてみたいと思います。今まで持っていた資料ではこの辺りを調べるのに限界があります。それから、これまでのフォースター研究では、1930年までのフォースターの創作を対象にするのが普通であり、1930年以降のリスナー誌などでの活動を中心に据えたものはほとんどありません。1930年以降のフォースターを研究するための資料として使いたいと思っています。第二に、フォースターに限らず、書評を遡ることによって、様々な面白い話題を提供してくれると期待しています。第三に、マスメディアを利用した作家の作品表現のスタイルを、リスナー誌を通じて調べてみたいと思います。

 

小社では、リスナー誌以外に、タイムズタイムズ・リテラリー・サプルメントサンデー・タイムズデイリー・メールなど、イギリスの新聞、雑誌をデータベースでご提供していますが、リスナー誌以外に使ってみたいとお考えのものがあれば、教えてください。

これまでの話の流れで言えば、タイムズ・リテラリー・サプルメントと言わざるを得ないと思いますが(笑)、あまり広げ過ぎないようにしようと思っています。広げ過ぎると散漫になってしまいます。

 

文学作品のスタンダード・エディションとデータベース

 

Listener Historical Archiveのような雑誌のフルテキストデータベースを使うことで、紙媒体の時代にはできなかったことができるようになると考えられます。データベースが研究の主題を広げるのかどうか、研究の性質を変えるのかどうかについて、お考えをお聞かせください。

第一に、現在紙媒体しか使わない研究者はほとんどいないでしょう。それから、原稿用紙にペンで原稿を書く人もほとんどいないでしょう。研究資料としてデータベースを使うのに慣れると、自然にデジタル資料の方が使いやすくなります。このような状況の中で問題になるのは、テキスト-狭義の意味でのテキスト、つまり人間が発する伝達する意思としてのテキストではなく、作品という意味でのテキストです-はデジタル媒体で大丈夫なのか、ということです。プロジェクト・グーテンベルクは、有志の人々が善意でテキストを入力したものですから、誤字脱字があっても文句が言える筋合いではありません。しかし、出版社が提供するデータベースでは話が違います。データベースに搭載されたテキストがスタンダード・エディションとして通用するのか、という問題です。私自身は、デジタル媒体のテキストもスタンダード・エディションとして認められるようになるのが望ましいと思います。しかし、研究者個人が認めても、研究者の世界では紙媒体のテキスト以外は認めていないというのが現状です。たとえばシェイクスピアであれば、ケンブリッジ版やニュー・アーデン等のなかから特定のスタンダード・エディションを決めて、今回はニュー・アーデンでやると決めるわけです。デジタル版のものがそこで容認されるかというと、まだされていません。ニュース報道の場合はそんなことは言っていられません。デジタル媒体であれ何であれ、入ってきたニュースが一次資料として使われ、受け取る側も信用しています。ところが、パンクチュエーションにまでこだわる文学における作家・作品研究では、スタンダード・エディションがなければ研究が成立しません。二次資料、参考資料についてはデータベースが非常に有効ですが、一次資料についてもデータベースが使われるようになれば、とても便利ですが、そこまで行っていません。ただ、そこまで実現すると古書店は困りますが(笑)。スタンダード・エディションは古書市場で入手しにくいという問題もあります。クラレンドン版のブロンテ姉妹の作品集は滅多に手に入りません。特に”Jane Eyre”(『ジェイン・エア』)はまず市場に出回ることがありません。入手しにくいからと言って、ペーパーバックで済ますというわけにも行きません。ですから、スタンダード・エディションがデータベースの形で使い易い形でアクセスでき、容認されるのであれば、文学研究が進みやすいと思います。

 

デジタル化されたスタンダード・エディションをどこまで許容するのかという問題は、学界でも議論はされているのですか。

議論はされています。デジタル版でも良いのではないですかという意見は出たりしますが、若い研究者が発表する時は、今まで通り紙媒体のスタンダード・エディションを使ってしまう傾向を脱することができません。やはり皆、慎重になるのです。

 

学術論文におけるデジタル資料の引用

 

論文でデジタル資料を引用するところまで行っていないのですか。

作品については、デジタル版で引用するところまで行っていないです。このような人はこのようなことを述べているという知識を論文の中に紹介する場合やレファランスについては、データベースやウィキペディアを引用することはよくあります。ただ、作品を引用する場合は、それがデジタル版で入手できていても、それが容認されるのかどうかが、分からないのです。

 

作家の作品を引用する場合は、今でも紙媒体のテキストを引用するということですね。

紙媒体のテキストを引用するという傾向がまだ強いですね。リスナー誌に寄稿した作家を調べるにしても、自分が専門としている作家の作品集は私自身、紙媒体で持っています。有名な作家のものも紙媒体で持っています。でも、自分の専門ではなく、有名でもない作家の作品集は持っていません。でも、デジタル版のテキストが容認されれば、Listener Historical Archiveのようなデータベースを使って見て、自由に論文に引用することができるようになります。フォースターも関わったブルームズベリー・グループには、ロジャー・フライやクライブ・ベルも所属していました。彼らは美術批評家です。この流れのなかから、画家でもあり小説も書いたウィンダム・ルイスが出てきます。ヘンリー・ムーアやケネス・クラークも同じ流れです。でも、彼らのテキストを私は持っていません。これらのテキストがデジタルデータで入手できれば、とても便利でしょう。プロジェクト・グーテンベルクを見るのも、自分が専門としていない作家の場合です。

 

イギリスとかアメリカでは、デジタル版のスタンダード・エディションに対する扱いはどうなのでしょうか。

イギリスやアメリカの方が日本より緩いです。ペーパーバックも使われています。日本だけではないかも知れませんが、第二言語として研究する国の方が引用するテキストの基準について厳しくこだわるようです。

 

今日は、フォースターからリスナー誌、さらにはデジタル資料の扱いにいたるまで、広範囲に及ぶテーマについて語っていただき、興味深い話題をたくさんお聞きすることができました。石和田先生、ありがとうございました。

 

このインタビューを行なうに際して、紀伊國屋書店様のご協力をいただきました。ここに記して感謝いたします。

 

ゲストのプロフィール

石和田昌利先生 (いしわだ・まさとし)

学歴:

東洋大学 文学研究科 英文学

■主な論文:

  • E・M・フォースターのフィクションにおける死後の人生 東洋大学英米文学科『白山英米文学』(東洋大学文学部紀要英米文学科篇)(39) 一‐一八2014年02月
  • E・M・フォースターのサイエンス・フィクション 東洋大学英米文学科『白山英米文学』(東洋大学文学部紀要英米文学科篇)(38) 一-二七2013年02月
  • E・M・フォースターの小説の中の手紙 東洋大学英米文学科『白山英米文学』(東洋大学文学部紀要英米文学科篇)(37) 一-二一2012年02月
  • E・M・フォースターの「副牧師の友達」の一考察 東洋大学英米文学科『白山英米文学』(東洋大学文学部紀要英米文学科篇)(36) 二九-四六2011年02月
  • E・M・フォースターの二つのパジェントについて 法政評論研究会『法政評論』(20) 77-882010年03月
  • E・M・フォースターの「土地の霊」との出会い ―1947年版の短編集序文をめぐって― 東洋大学英米文学科『白山英米文学』(東洋大学文学部紀要英米文学科篇)(35) 二七-四三2010年02月
  • E・M・フォースターの「永遠の瞬間」の一考察 東洋大学英米文学科『白山英米文学』(東洋大学文学部紀要英米文学科篇)(34) 二五-四四2009年02月

主な書籍:

  • 伊藤廣里教授傘寿記念論集(共著) 伊藤廣里教授傘寿記念論集刊行会 2007年
  • ロレンス文学鑑賞事典(共著)彩流社 2002年
  • 英米文学と言語―新しい研究の地平を求めて―(共著)ホメロス社 1990年

現在(2021年)東洋大学文学部英米文学科教授