菅靖子先生にデイリー・メールについてお話を伺いました

 

 津田塾大学学芸学部 教授

高級紙より大衆紙の方が面白いと思っているくらいです

実施日:2014年1月24日 
ゲスト:菅 靖子 先生
機 関:津田塾大学 
協 力:紀伊國屋書店 
トピック: 
Daily Mail Historical Archive

 

 

お忙しいところ、お時間をいただき、ありがとうございます。今日はよろしくお願いします。
こちらこそ、よろしくお願いします。


早速インタビューに入りたいと思いますが、まず先生のこれまでの研究を簡単にご紹介いただけますか。
紆余曲折がありましたが(笑)、アーツ・アンド・クラフツ運動から室内装飾、世紀末のトータル・アートまで、社会の近いところにある表象文化としてのデザインをこれまで研究対象としてきました。アーツ・アンド・クラフツ運動はウィリアム・モリスとモダニズムの狭間にあるのですが、狭間にあるが故の難しさ、イギリスならではの難しさに惹かれ、さらに研究するためにイギリスに留学しました。イギリスではモダニズムをしっかりと見て、その上で19世紀を振り返る試みとして『イギリスの社会とデザイン:モリスとモダニズムの政治学』(彩流社)を上梓しました。その後、ジャポニスムや室内装飾に関心を持ち、室内装飾では植物が不可欠であるため、植物の消費文化にも関心を持ち、今に至っています。

British Society and Design
British Society and Design

 

デイリー・メールが主催した「理想の住まい」展


先生はその中で、デイリー・メールが主催した「理想の住まい(Ideal Home Exhibition)」展にも関心を寄せられています。「理想の住まい」展はどのようなものだったのでしょうか。また、イギリスのデザイン史、住宅文化史の中でどのように位置づけられるのでしょうか。
「理想の住まい」展が出てくる背景としては、家具業界で室内装飾をパッケージとして扱い、また家を一つのまとまりとして考える文化的素地があったことが指摘できます。下層中流階級という人口の大きな階層に安価な家を提案したことは、室内装飾の考え方の変化を反映する一つの象徴的な出来事として、デザイン史の中では捉えることができると思います。


デイリー・メールという新聞社が「理想の住まい」展の開催を始めたことには、どのような背景があるのでしょうか。
女性の読者を増やしたいのが一番の理由だったと思います。そもそも創業者のノースクリフ卿は、女性を読者として強く意識し、編集者や記者に女性を起用しました。当時はそこに眼を付けたことが新しかったと言えます。19世紀後半のイギリス社会では家や家庭を尊重するという中流階級の考え方が強まっていました。家庭の中で家の飾り付けをしたのは主に女性で、室内装飾はある意味で女性の自己表現ともなっていきました。女性の自己表現である室内装飾を上手に安くできるという情報を提供したのが、デイリー・メール社主催の「理想の住まい」展です。

「理想の住まい」展開始当時の一面広告~April 20, 1908~
「理想の住まい」展開始当時の一面広告~August 20, 1908~

 

デイリー・メールは女性向けの新聞


先生は、『Mrs. C.S. Peel: Writings on Domestic Advice and Social History(C.S.ピール夫人著作集 別冊解説』(アティーナ・プレス, 非売品)でデイリー・メールのことを女性向けの新聞とおっしゃっています。確かにデイリー・メールは、先生がおっしゃったとおり女性の読者を強く意識していたことは有名ですし、イギリスでは一般に流布しているイメージだと思いますが、タイムズが国家を統治するエリート階層によって読まれているのに対して、デイリー・メールは国家を統治するエリート階層の夫人たちによって読まれている、という言い方があるようです。それでも、改めて女性向けの新聞と言われると、日本人にはイメージしにくいように思われます。このあたり、もう少しご説明いただけますか。
これまでの新聞と比べると、女性の読者を想定したと言う面が非常に強いということです。もちろん、男性読者もいて、政治的な記事もありましたが、クッキングや女性向けQ&Aのコーナーがあって、女性にとっても親しみやすいというのは、それまでの新聞になかった大きな特徴だと言えます。

 


料理に関する特集記事~October 20, 1902~


~April 12, 1910~

 

今おっしゃったようにデイリー・メールは女性向けコラムで有名ですが、デイリー・メール以前のヴィクトリア朝の雑誌にも、ファッションやクッキングなど、ビートン夫人のものを典型とする女性向けコラムは人気を集めていたと思います。このような歴史の中でデイリー・メールの女性コラムはどう位置づけることができるのでしょうか。
ビートン夫人は中流階級の人ですから、そのコラムは召使や家事使用人を使う奥様方を対象にしていましたが、デイリー・メールが出てくる19世紀末になると、上層労働者階級や下層中流階級の女性をターゲットにした新しい雑誌が刊行されるようになります。ノースクリフ卿自身、そのような雑誌を作りました。ここに大きな転換がありました。これで成功したため、その路線を新聞にまで拡大したということになると思います。

デイリー・メールの創業者ノースクリフ卿Illustrated London News,~August 19, 1922~
デイリー・メールの創業者ノースクリフ卿 Illustrated London News,~August 19, 1922~

 

ノースクリフ卿はデイリー・メールで成功する前に、女性向けの雑誌ビジネスで成功を収めていたということですね。
ビートン夫人が狙っていた階層よりも少し下の階層の女性たちまでノースクリフ卿は狙っていたということですね。”Forget Me Not(忘れな草)” という、とても可愛らしい名前のついた雑誌なんかもあります。そのなかで、働きながら、たとえば5ポンドで家をどう飾るか、というテーマなども、とても倹しいながらも上手に紹介していった経験がデイリー・メールに生かされていると思います。

1968年10月に始まった 女性専門特集記事”Femail” ~October 11, 1968~
1968年10月に始まった女性専門特集記事”Femail”
~October 11, 1968~

 

実用的なレシピを提供したピール夫人


ノースクリフ卿が編集者や記者として起用した女性の中で、どの女性に関心をお持ちになりますか。
やはり、ピール夫人がとても面白い人物です。ノースクリフ卿からアメリカでの講演ツアーへ派遣したいと言われたものの、病弱だったため断わり、その代りデイリー・メールの食品課で働くよう依頼を受け、10年くらいに亘り女性の中ではデイリー・メールの看板とも言える働きをしました。ピール夫人の回想録にもノースクリフ卿は出てきます。これまで出会った中で最も魅力的な人物の一人だと言っています。ピール夫人は政府の中でも働いた経験がありますが、それと比較してもデイリー・メールは働きやすい職場だったようです。


ピール夫人はどのようなコラムを書いていたのですか。
第一次大戦中は肉や小麦粉やパンなど食糧が欠乏していました。食糧の自給率も下がっていました。ボートで小麦粉をフランスから輸入していたのが、ドイツからの攻撃に遭い、輸入が途絶し、パンの価格が急騰します。肉やバターなど、食糧価格が軒並み上がります。そのような時に、肉を使わないでどうやって生活をしたらよいか、砂糖がない中でジャムをどうやって作ったらよいか、生活に必要な実用的な知識をピール夫人はレシピを公開することでコラムを通して発信してゆきます。とてもおいしいとは思えないですが(笑)。食品を買い控えろとか、パンを食べるなというだけではどう対処していいか分からず悩んでいる主婦が多く、男性の政治家もどうやってラードを使ったらよいかなど分かりませんよね、そもそもラードって何か(笑)という世界だと思いますが、そんな中で、ピール夫人は噛み砕いて実際的なアドバイスをしたことが評判を呼び、コラムが本(”The Eat-Less-Meat Book: War Ration Housekeeping”)としても出版されました。

 


第一次世界大戦中のピール夫人の料理コラム~March 1, 1918~


~April 24, 1918~

 

この本の中では頻りに「エコノミー」という言い方がなされていますね。
そもそも19世紀が肉を食べ過ぎていたという言い方をピール夫人はしています。今で言うヘルシー・ダイエット、料理はちょっとまずいですが(笑)、ヘルシー・ダイエットの先駆けのようなことを言っていたのかな、という気がします。現代にも通じるところがあります。その意味で、昔の資料ですが、現代の私たちが読み返しても面白いです。


ピール夫人のことを先生はカリスマ主婦と呼んでいらっしゃいますね。
そうですね!ビートン夫人もいわばカリスマ主婦でした。歴史的カリスマ主婦は何人かいるのですが、19世紀末から1930年代にかけての時代ではピール夫人がカリスマ主婦の代表だと思います。


デイリー・メールはイギリス女性史研究を相対化する


記者や編集者に女性を積極的に登用するなど先進的な試みをしたノースクリフ卿ですが、女性参政権については保守的な考え方の持ち主だったようです。女性史の中にデイリー・メールを位置づけるとすれば、どのように評価できるのでしょうか。
デイリー・メールの女性読者は平均的な女性だと考えればよいと思います。女性参政権運動のパンフレットはすでに多数出版されていますが、これらの出版物はある意味では尖がった一部のサークルから出てきており、必ずしもマジョリティの女性に共有されていたわけではないでしょう。「理想の住まい」展に女性参政権の運動家が乱入してきて問題を起こしても、報道しつつも、それから距離を置いて見ている部分があります。ピール夫人も女性の地位向上をのぞみつつも、女性参政権運動の人々とは一線を画するという言い方をしています。女性なら誰でも女性参政権運動を好意的に見ていたかというとそうではなかったのです。女性運動家とそうではない女性の現実的な温度差が、デイリー・メールを通しても透けて見えてくるかもしれません。


これまで出版社の提供するイギリス女性史の資料と言えば、女性参政権関連のものが多かったように思われます。とすれば、デイリー・メールはこれまでのイギリス女性史に対して相対化の視点を提供してくれるという言い方ができるのではないでしょうか。
そうですね。「女性参政権万歳!」ではない見方を通して、逆に当時の女性参政権運動の新しさがどこにあったのかを分析する視点も得られるのではないでしょうか。


デイリー・メールとミドルブラウ


近年、イギリス文化研究の中で「ミドルブラウ」という概念が注目を集めているようです。イギリス文化、社会に対して従来の階級という概念を使っただけでは零れ落ちる部分を掬い上げるために、階級を補完する概念として使われているようです。大衆的ではあるが、教養性も備え上昇志向を持つ存在と、とりあえずは言えるのではないかと思いますが、端的に言ってデイリー・メールはミドルブラウの新聞と言うことができるのでしょうか。
ミドルブラウは今イギリスでも大きなトピックです。デイリー・メールがミドルブラウの新聞かどうかは厳密に言えば難しい部分もあります。またそう言えるかどうか確認するためには、何十年もの長いスパンで読者層を見ておかなければならないでしょう。でも、ハイブラウではないところをターゲットにしているということは確実に言えると思います。


デイリー・メールを通して日常生活の変貌が見えてくる


先ほど、戦争中のレシピのお話が出ました。今年は第一次大戦が勃発して100周年に当たります。第一次大戦とともに現代史が始まったとも言われます。総力戦として遂行された第一次大戦は、政治や経済の制度だけでなく、日常生活のあり方をも変えてしまったとも言えます。デイリー・メールの女性向けコラムや広告欄などを通じて、第一次大戦によって生じた日常生活の変貌を追跡することもできるのではないかと思いますが、いかがでしょうか。
その通りだと思います。現にレシピの大元締めだったピール夫人は、戦争を機にコストをかけずに経済的に暮らす方法をシンプル・リビングとして本格的に提唱するようになるのですが、これは戦争がもたらした良い結果だったとすら自伝で書いています。デイリー・メールで長くコラムを書くことで、多くの人に影響を及ぼしましたし、ピール夫人自身、自分の影響力を実感していたようです。ピール夫人自身はこれを ”labour saving”(省力化)と言っています。”labour saving” という視点をクッキングをはじめ生活全般に広げる、たとえば石炭に労力をとられないためにオール電化で行きましょうというようなことを推奨していますが、これも現代に通じるところがありますね。

 


省力化の必要を訴えるピール夫人のコラム~July 28, 1919~


~October 17, 1919~


興味が尽きない新聞広告

 

先生はデザイン史を専攻していらっしゃいます。デザインというと形です。そうなりますと、新聞の中では広告が先生にとっては重要な資料になるのでしょうか。
そうですね。博物館に保存される電化製品はありますが、これらは製造される製品のほんの一部で、値段の高いものが多いのです。これに対して、同時代にいろいろなものが作られて、そのうち9割以上は消えてゆきますが、そういう消えてゆくものの価格や形を新聞広告でとらえることができます。「理想の住まい」展の面白さもそこにあります。この展覧会のカタログが毎年出されていて、中を見ると「こんな最先端の技術がこの価格で!」というような謳い文句の広告のオンパレードです。どのような技術がいかに宣伝され、どのようにモノのデザインが考え直されていったのか、モノづくりの思考の経路が分かります。それから製品の価格からは展覧会の来場者の階層も分かりますし、いろいろな推測の手掛かりを与えてくれます。

 


スワン&エドガー百貨店の一面広告~January 7, 1908~


ハックニー家具株式会社の一面広告~January 11, 1910~

 


デイリー・メールが日本のジャーナリズムに影響を与えた!?


少し、視点を変えて、日本人に関わる質問をさせていただきます。明治から大正時代の日本の新聞人の中には、渡英したときノースクリフ卿に会っている人もいます。その中で、朝日新聞の杉村楚人冠(すぎむら・そじんかん)はノースクリフ卿に乞われて、デイリー・メールにロンドン印象記を寄稿しています。ノースクリフ卿と交流をもった日本の草創期のジャーナリストがいたというのは歴史的に興味深いと思います。
そうですね、それは興味深い。ノースクリフ卿の出した『ハームズワース家庭生活百科事典』も丸善から『万有百科事典』として翻訳刊行されていました。それから長谷川如是閑(はせがわ・にょぜかん)も同じ頃、ロンドンにいましたね。デイリー・メールは元気がよいみたいなことを『倫敦!倫敦?』の中で言っていたように記憶しています(注)

 

杉村楚人冠が連載寄稿したイングランド印象記 ~May 7, 1907~
杉村楚人冠が連載寄稿したイングランド印象記~May 7, 1907~

 

日本の草創期のジャーナリズムにデイリー・メールが見えないところで影響を与えているのであれば、近代日本新聞史の研究の資料としてもデイリー・メールは使えるのではないでしょうか。
それは大いにあり得ると思います。実際、「理想の住まい」展と同じものを日本でやろうとした事例があります。デイリー・メールに影響を受けたものと思われます。国民新聞社が上野で家庭博覧会というのを1915年に開催していますが、欧米の有力新聞社にヒントを得たそうです。この種のものはデイリー・メールしかしていないので、有力新聞社とはデイリー・メールでしょう。デイリー・メールが日本に与えたダイレクトな影響の一例です。


(資料を見ながら)これは面白いですね。
日本で初めて家に室内装飾を施して展示したもので、人目を引いたということです。この辺り、日本の新聞と海外の新聞の関係というところまでもう少し研究されると面白いと思います。


大量生産化の中で人々は古い家具の価値に目覚めた


先ほど、「家をまとまりとして考える文化的素地があった」とか「家を大切にする中産階級の思想」という言い方をされましたが、日本と欧米を社会として比較する際に、イギリスやアメリカは個人主義であるのに対して、日本は伝統的に家族主義という言い方がしばしばなされますね。
それについてはちょっと補足が必要ですね。つまり、住まいの箱としての家を大切にするということです。18世紀には、上流階級の人々しか家具を購入することができませんでした。ところが19世紀になると、中産階級が増え、都市人口の増大に伴い郊外へ移動すると、物理的に家が必要になってきます。物理的に新しい家が沢山作られるようになり、家具も必要になってくる。そして家具をどうしつらえるかがトピックになります。消費文化史の中で見ると、この時点で家というまとまりが大切になりました。最初は、カーテンはこの店、ソファーはこの店という風に家具を一つ一つ購入していたのが、19世紀後半になると、家具屋が一括いくらという提示をし始める。下層中流階級の、自分は家具を選ぶ素養などないと思っている人にとって、これはとても有難いことでした。これと同時に起こっていたのが、家具の大量生産化です。安く購入することもできるけれども、家に良いものを置こうという思想がウィリアム・モリスです。この時に、古い家具がよいという発想も生まれました。古い方が丁寧に作っているからです。「理想の住まい」展が始まる少し前の1900年代に、新しい家具と古いアンティーク家具の価格の反転が起こったという論文があります。この頃からアンティークの方にむしろ高い値段がつくようになるというのです。


とても興味深い現象ですね。
「理想の住まい」展が出てきて、家具一式いくらの家を大衆的に販売する流れがエスカレートする一方で、昔ながらの一点もののアンティークが価値を持つようになったということだと思います。ですから、「理想の住まい」や大量生産化とアンティークの価値への注目というのは、相反するようでいて関わっています。


新聞がイギリスの国民意識の形成に寄与した


ノースクリフ卿は、新聞の全国販売網を築き上げたことでも有名です。デイリー・メールによって初めて真の全国紙が生まれたとも言われます。先生は、著書の中でイギリス人の国民意識(イングリッシュネス)に言及していらっしゃいますが、イギリス人の国民意識の形成にデイリー・メールをはじめとする新聞が寄与した側面はあるのでしょうか。
即座にイングリッシュネスに結び付くかどうか分かりません。最初は読んでいる読者の階級の結びつきの方が強かったと思います。ただ、デイリー・メールが創刊された頃、他にも大衆紙が創刊されますが、やや右翼的な意見の流布はこのような大衆紙が担ってきたという側面は、現在まで続く現象として存在するとは思います。その中で特に戦時中は大衆紙がドイツ人の悪口を書き立てましたが、それがある種のナショナリズムの形成に寄与したという面はあるでしょう。


デイリー・メールはタイムズと同じくらい重要!


デイリー・メールは大衆紙の元祖と言われています。一方、イギリスにはタイムズなどの高級紙が存在しています。今、新聞は多くがデジタル化されつつありますが、データベースとしての大衆紙の大学への導入はまだ緒についたばかりです。高級紙の価値は認めても、大衆紙がどこまで研究に必要なのですか、という声もちらほら聞こえてきます。研究資料としての大衆紙の価値をどのように評価されますか。
それは大きいです!高級紙と同様です。もちろん、タイムズは歴史が長いので19世紀の歴史を見るにはまずタイムズということになるかもしれません。でも、特定のトピック、たとえば「チェルシー・フラワーショー」についてタイムズが報じた記事を見るだけでなく、大衆紙がどう報道したかも見ることで、多角的にそのトピックをとらえることができるでしょう。歴史的な資料として大衆紙だから資料として劣るというようなことはありえません。


それを聞いて安心しました。
(笑)むしろ、私は大衆紙の方が面白いと思っているくらいです。広告でもタイムズにはそれほど出ていなくて、大衆紙の方が、モノの動きなど躍動感があります。タイムズはどう書き、ガーディアンはどう書き、デイリー・テレグラフはどう書き、デイリー・メールはどう書いたのか・・・・・。特に労働運動などの民衆の側からの運動と考えられている運動の実態を見るには、いろいろな側面からいろいろな新聞を見た上で総合的に分析するとよいのではと思います。

 


1939年5月17日のデイリー・メール(左)とタイムズ(右)のチェルシー・フラワーショーの記事

 

複数のデータベースで一つの出来事を比較するのが大切


デイリー・メールのような大衆紙だけでなく、高級紙を含めて、新聞データベースを教育面に活用する可能性について、どのようにお考えですか。先生が学生さんや大学院生向けの授業で新聞データベースを使うとすれば、どんなことをやってみたいと思いますか。
複数のデータベースで一つの事件を比較することを通じて、新聞というメディアの何たるかを教えることですね。あとは、一次資料を扱うことの意味を教えたいですね。オリジナルをスキャンしたデータベースを使って、学生には広告やヘッドラインのレイアウトなども学ばせることができると思います。


イギリス教育機関におけるデータベース利用環境


イギリスの研究事情、教育事情について質問させていただきます。イギリスの研究や教育において新聞資料はどのように使われているのでしょう。先生が英国滞在時に日本の事情との相違に出くわした経験をお持ちであれば、お話し下さい。
まず、一次資料にアクセスできる環境が違います。日本の地方の文書館に行くと、デジタル化どころか目録化されていない一次資料も多々あります。デジタル化はお金がかかるため、止むを得ない面もありますが。教育面で言うと、イギリスでは、一次資料に当たるためのマイクロやデータベースを使う環境がより整っているので、利用の頻度も高いとおもいます。


ある先生から日本では、雑誌や新聞の使い方を系統的に教育する環境が存在しない、そこがイギリスとの大きな相違であるとのご指摘をいただきました。
その問題はあるかもしれません。


資料のデジタル化が研究に与える影響


資料のデジタル化が研究を変えるということはしばしば抽象的には言われますが、具体的にどのように変わるのか、あるいは変わっているのか、ということについてはどうお考えですか。
かつては、現物のあるところに行って、見てくるだけでも褒められた時代があったと思います。でも、今は見て当たり前、さらに様々なデータベースを駆使して当たり前になっていると思います。その意味では研究の幅も広がると同時に、研究の質も上がりますが、その一方で、本物を見ないで研究してしまう人も出てきてしまいます。そのあたりのバランスを考える必要があると思います。タイムズだったら、デジタル版でもさほど問題ないと思います。ところが雑誌は紙や図版の質などの「モノ感」がより大事になります。とりわけデザイン史のようにモノ作りの過程を研究する場合は、本物も押さえつつ、デジタル版で提供されたものを使うと効率的なのではないかとおもいます。


Gale Primary Sources というアーカイブを横断検索するプラットフォームをご用意していますが、ここに搭載される新聞アーカイブを毎年少しずつ追加する計画でいます。
素晴らしいですね。できたら寸法も入れて欲しいです。いかに利用されたかを考える上で、メディアの寸法は大事です。


今日はどうもありがとうございました。
こちらこそ、ありがとうございました。


(注) 「目下倫敦で最も発行部数の多いのは自由党の機関紙デーリー・メールだが、この新聞は内容の簡にして尽せるを特長として、比較的人目を惹くような体裁に苦心しているらしいが、自分の社の大飛行懸賞の記事のような特別のものを除いては、仰々しい体裁を作らない。」(長谷川如是閑『倫敦!倫敦?』岩波文庫)


※このインタビューを行なうに際して、紀伊國屋書店様のご協力をいただきました。ここに記して感謝いたします。

ゲストのプロフィール

菅靖子先生 (すが・やすこ)

最終学歴:

ロイヤル・カレッジ・オブ・アート(Royal College of Art) 学術博士(Ph.D) デザイン史(History of Design)

主な著書

  • “Reimann School:A Design Diaspora” (Artmonsky Arts)、
  • 『金唐紙ーKinkarakami, the art of Japanese leather paper』(金唐紙研究所)、
  • 『モダニズムとデザイン戦略』(ブリュッケ)、
  • 『イギリスの社会とデザイン』(彩流社)

他、論文多数。

現在(2021年)津田塾大学学芸学部 教授