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(本エッセイの英語原文はこちらよりご覧いただけます。Click here for English text.)

 

…その行動と影響のすべてを生きて動くパノラマとして世界の眼前に見せ続ける

 

ニュースの革命

1842年5月14日、『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』(ILN)が世界に躍り出たとき、人々はそれと比べうるものを見たことがなかった。図版そのものが出回っていなかったわけではない。むしろ、片面刷りの素朴な木版画から、精力的に “改善” を続ける百科事典『ペニー・サイクロペディア(Penny Cyclopedia)』に載せられた動物や機械の図、1枚ものの廉価な新聞に掲載された悪名高い殺人者の不鮮明な肖像画まで、じつに多くの図版が様々な形式で流通はしていた。しかし、大方の新聞の読者は、有名政治家の長い演説を読むときに、その政治家がどんな風貌をしているのかさえわからずに読んでいたし、遠い場所での戦争や災害、発見のニュースも、退屈な描写から想像できる以上の具体的な場所のイメージをもてなかった。ニュースに画像を組み入れるという電撃的かつ革新的な手法はほとんど試されておらず、あったとしても、こっちの大火や戦争、あっちの殺人というふうに特別で散発的なものだった。

イラストレーテッド・ロンドン・ニュース創刊号

『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』創刊号(1842年5月14日)
"The Illustrated London News." Illustrated London News, 14 May 1842, p. [1]. The Illustrated London News Historical Archive, 1842-2003

イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』はこの状況を、それも創刊号から永久に変えてしまった。読者は6ペンス払えば、48段の記事に大小32枚の木版画が添えられた16ページの紙面を手にすることができたのである。そこにはまさにその週、古都ハンブルクを襲った大火災の挿絵を始め、パリからの最新ファッションの実例、バッキンガム宮殿の仮装舞踏会を取り仕切る若いヴィクトリア女王の姿、それに数多くの小さいカットが掲載されていた。何より巻頭には、テムズ川から眺めたロンドンの壮麗な街並み、そして中央にそびえたつセントポール大聖堂の前を静かに進むロンドン市長の遊覧船の行列が描かれていた。同紙の特徴であるこの題字も、トピックの自由闊達な組み合わせも、19世紀の間、そしてその先も変わることがなかった。『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』が根本的にそれまでの新聞と最も違っていたのは、創刊号や他の号にとどまらず、最新の出来事に関する情報や論評を伝える際に、本文に挿絵を完全に連動させ、安定した週刊報道を実現したことである。

創刊号の題字部分

 

ハーバート・イングラム(Herbert Ingram

この図版ジャーナリズムは、主にハーバート・イングラムという無名の地方商人の猛烈なエネルギーと研ぎ澄まされた起業家としての本能によって、この歴史的瞬間にこの特定の形態をとりえた。イングラムが『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』創刊に持ち込んだビジョンの形成には、この地方人気質と商売との関わりの両方が重要だった。イングラムはぎょろりとした青い眼のがっちりした男で、足を引きずるように歩き、粗野な態度をとり、移り気な性分だった。彼は、大物を狙う鋭い本能をもった抜け目のない観察者だった。ため込んだエネルギーは彼の野心と同じく尽きることがなく、すばらしいアイデアを思いつくと、それを成し遂げるために休むことなく全力を傾けた。

リンカンシャー州の家庭に生まれたイングラムは、幼いころに父を亡くした。そのため、形ばかりのグラマースクール教育を受けた後、印刷業者の徒弟となるしかなかった。徒弟期間を終えると、1830年代初めの2年間をロンドンで熟練印刷工として働き、十分な貯金ができてからナサニエル・クック(Nathaniel Cooke)と共同でノッティンガムに印刷所と新聞販売店を開いた。イングラムやクックが開いたようなこうした店は、チラシなどの端物印刷から特許薬の販売、安い最新の新聞の取り扱いまで手広く何でもやっていたが、むしろ、機に乗じてさまざまな事業を手掛けていたからこそ、イングラムは初めての大金を手にし、ジャーナリズムを一変させる発想を得ることができた。

国中の何百という他の小規模店舗オーナーと同じように、イングラムも「モリソンの丸薬(Morison’s Pills)」の “代理店” 契約をしていた。この大々的に宣伝された万能薬はその発明者に一財産をもたらしたが、1830年代半ばになって、薬の腐食性のために人々が次々と突然死し始めた。そこでひらめいたイングラムは、自前の万能薬を発売しようと決意する。彼は、シュロップシャー州の152歳まで生きた「オールド・パー(Old Parr)」という人物の古い伝説にヒントを得て、心臓の不調から不眠症、便秘に至るまであらゆる病に効き、オールド・パー自身が残した処方箋から調合したと言われる「パーの丸薬(Parr’s Pills)」をマンチェスターの薬剤師に作らせた。丸薬の宣伝のため、オールド・パーの「人生」の創作と同じく架空の肖像画を依頼した後、彼は直ちに国中に自前の代理店網を整備し、新たに得た収益を投じてロンドンの出版業の中心地、クレインコートにオフィスを構え、事業経営に乗り出した。

 

新たなビジョン

この新たな事業拠点から、イングラムは生涯の仕事になる事業に乗り出そうとしていた。それは、地方の販売人として熟知した新聞業界に関して得た2つの着想に基づいていた。イングラムは、『ウィークリー・クロニクル(The Weekly Chronicle)』のような安物新聞が木版図版を載せたときは必ず、その号の売上が通常の販売部数を大幅に上回ることに気づいていた。例えば、1837年の悪名高いキャンバーウェルの殺人者、ジョナス・グリーンエイカー(Jonas Greenacre)が裁判を経て絞首刑になるまでの何週間かもそうだった。新聞販売人としての経験から得たもう一つの教訓は、地方の得意先がいつも、名前を挙げてこの新聞、あの新聞が欲しいとは言わず、「ロンドンのニュース」をくれ、と言っていたことである。彼は考えた。新聞にたまに数枚図版を載せるのではなく、人々の関心が沸騰している出来事に関する図版を毎週、山のように掲載すれば、そして、名称に「ロンドン」と「ニュース」の両方を入れれば、その効果はどんなものだろう? 当初、彼は、センセーショナルな犯罪記事だけを集め、のちに『ポリス・ガゼット(The Police Gazette)』となった新聞の路線を考えていたようである。自前の丸薬を開発、販売してモリソンの一枚上手を行ったのと同じように、イングラムには『ウィークリー・クロニクル』のような煽り記事の新聞を、彼らの土俵で打ち負かせるという自信はあった。しかし、彼はやがて、リスクは高くても、より遠大でより野心的な視点をもつ計画であれば、それ以上に成功する確率が高いという結論に達し、さらに確信するのである。

そして機は熟した。前の夏には『パンチ(Punch)』が登場していた。ふんだんに挿絵が入った漫画週刊誌だったが、長く諷刺出版物につきものだった下品な諷刺画やわいせつな中傷のない、尊敬に値する家族向け出版物だった。『パンチ』の成功は、尊敬されるだけではなく話題性のある安い絵入り新聞の道を拓くと思われた。『パンチ』は、使い古されただじゃれだけではなく、その週のニュースをテーマにした諷刺を得意としていた。イングラムは『パンチ』の関係者と深い付き合いがあった。『パンチ』創設者のひとり、エベネザー・ランデルズ(Ebenezer Landells)は木版画の木版職人兼画家として採用され、同編集者のマーク・レモン(Mark Lemon)は、イングラムが『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』を計画した際の信頼できるアドバイザーとなった。

 

市場での成功

それでも大変な障害が残っていた。これほどの規模やスピードで図版を構成しようとした出版社はかつてなかったからである。イングラムは大急ぎで、できるだけ多くの画家と木版職人を見つけ、仕事を始めさせた。実のところ、創刊号ではちょっとした策を弄するほかなかった。例えば、火災の起きたハンブルクには画家がいなかったため、街並みのプリントを大英博物館から借り受け、大急ぎでその複製画を作って煙と炎を描き足した。

創刊号ハンブルク火災部分拡大

創刊号より「ハンブルク市火災の様子」の図版

 

創刊号のマーケティング活動は街を席捲した。発売前に、それぞれ告知文の1文字ずつが書かれている広告ボードを肩から前後にぶら下げた200人の男たちがロンドンの主な通りを練り歩き、一時はイングランド銀行をぐるりと取り囲んだ。イングラムはこの新しい新聞の編集者に、有能で大酒飲みのF・W・N・ベイリー(F. W. N. Bayley、名前のイニシャルが不自然に多いことから仲間うちで “アルファベット” ベイリーとして知られる)を呼び寄せた。ベイリーは市民への仰々しい挨拶文の中で、「その行動と影響のすべてを生きて動くパノラマとして世界の眼前に見せ続ける」という『イラストレイテッド』の決意を表明した。イングラムが雇い入れた人材の中でも最高の者は画家のジョン・ギルバート(John Gilbert)である。彼の緻密でありながら優美なスタイルは、その後も長く『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の外観を特徴付けることになる。しかも、彼の驚異的な速さと器用さときたら、使いが待っている1時間ほどの間に、要求された全ページ大の下絵を版木の上に直接描いたと言われるほどだった。彼はその後30年間、推定3万点の絵で同紙を飾った。

ジョン・ギルバートによる挿絵の例

(ジョン・ギルバートによる挿絵の例)「王とディー川の粉挽き」1855年12月22日号より  
"The King and the Miller of the Dee.—Drawn by John Gilbert." Illustrated London News, 22 Dec. 1855, p. 748. The Illustrated London News Historical Archive, 1842-2003.

創刊号の成功は語り草となった。販売部数2万6千は、新しい出版物の第1週の売れゆきとしては驚異的だった。次の2、3号は減じたものの、すぐに上昇に転じ、イングラムの天才的なマーケティングも少なからず寄与して、部数は着実に増え始めた。特に成功したのは、創刊号で発表した、業界では目新しい販促用の特典だった。ILNを6カ月間購読した顧客は、期間終了時にロンドンの眺めの大判プリントを受け取れるというものである。それまで雑誌や新聞の定期購読者にそうした特典が与えられたことはなく、またそれほど大きく複雑な木版画を作ろうという試みもなかった。ヨーク公記念塔に登って一連の写真を撮るため、写真家のアントワーヌ・クロード(Antoine Claudet)が雇われた。それらの写真を組み合わせ、北と南を望む街のパノラマのスケッチに使おうというのである。1辺5インチ(約12.7センチ)の柘植の版木60枚に穴をあけ、長い真鍮のボルトでつないで巨大な1枚の版木を作り、そのうえに画家のC・F・サージェント(C. F. Sargent)が絵を描いた。この絵を、エベネザー・ランデルズ指揮下の18人の男が丹念に彫り込んだ。完成した3×4フィート(約91×122センチ)のプリントは万人に称賛され、大成功を収め、購読者、経営者双方の期待に十分応えた。発行部数は、1842年12月までにほぼ3倍の6万6千部に増えた。

パノラマ版画「1842年のロンドン」

パノラマ版画「1842年のロンドン」
"London in 1842." Illustrated London News, 31 Dec. 1842. The Illustrated London News Historical Archive, 1842-2003.

新聞の立ち上げと拡張の費用は莫大なもので、草創期のどこかでイングラムは義理の兄弟で出版人のウィリアム・リトル(William Little)からやむなく1万ポンドを借り受けたが、この投資は十分な利益を生み、同紙はますます実力をつけ、イングラムは果敢に事業を進めた。最も遠く離れたニュースをも収集できるスタッフと制作システムを整備し、新しい部門と機能を加え、新しい印刷機や印刷工程を試し、自前の製紙工場を買収し、次から次へと販売促進のアイデアを試した。1848年、新しいカンタベリー大主教のジョン・バード・サムナー(John Bird Sumner)が、新しい凝った様式の式典で正式に就任すると、イングラムはこの出来事を大々的に取り上げ、国中の国教会聖職者全員に同紙を無料で送った。この大胆な発想は部数の爆発的増加をもたらした。ILNは、画家や画商にとっても恵みとなることがわかった。画家は、同紙に自作品の木版画を掲載するようしつこく要求する一方、毎年恒例のロイヤルアカデミー展覧会の特選絵画の木版画は長く人気の的となった。

ロイヤル・アカデミー展示の例

「ロイヤルアカデミー展覧会」1854年5月27日
"The Royal Academy Exhibition." Illustrated London News, 27 May 1854, pp. 485+. The Illustrated London News Historical Archive, 1842-2003.

 

ヴィクトリア朝中期の勝利

1840年代と50年代の出来事の報道も、伝えるとともに見せることのできる新聞の人気を押し上げた。1848年のフランス革命では、パリの各所にバリケードが築かれる中で国王が退位し、第二共和政が誕生したことから、英国の一般読者は大いに興味をそそられILNの需要は飛躍的に伸びた。あわれなウィリアム・リトルは、新聞の供給の遅れに苛立った読者と新聞販売人から通りで小麦粉を投げつけられたほどだった。1851年のロンドン万国博覧会での同紙の報道も大成功を収めた。手始めは、のちに(『パンチ』のダグラス・ジェロルドのおかげで)「水晶宮」(Crystal Palace)として知られるようになる建造物の設計者、ジョセフ・パクストン(Joseph Paxton)の輝ける独創的なデザインを擁護したことだった。博覧会の選定委員会にはこの設計に懐疑的な委員がいたが、同紙が取り上げたことでパクストンは英国世論に直接訴え、広く世論の大きな支持を集めることができた。これにより、その選定は既定の事実となり、懐疑論は退けられた。博覧会の開催週に『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』は10万部を売り上げた。特別付録は、建物とその内部を描いた折り込み図版とともに、同紙と英国の国家的業績を祝う催しとの親和性をより強く印象づけることになった。(訳注:関連エッセイ 水晶宮と1851年ロンドン万博 もご参照ください。)

水晶宮のパノラマ版画

(水晶宮の内部を描いた大判版画)1851年3月8日
"Interior of the Buildings in Hyde Park, for the Great Exhibition of the Industry of All Nations, Now Ready for the Reception of the Articles to Be Exhibited.-- Sectional View, Looking West." Illustrated London News, 8 Mar. 1851. The Illustrated London News Historical Archive, 1842-2003.

 

翌年、ILNは同様にウェリントン公爵の葬儀を極めて大々的に伝え、ヴィクトリア朝中期の英国に台頭した、誇り高き強烈な国家的アイデンティティの醸成に中心的な役割を果たした。目立つように「無料」と書かれた付録は豊富で、あれこれ有名な出来事を記念して発行された一方、ヘンリー・オースティン・レヤード(Henry Austen Layard)がニムルド遺跡(現代の一般的な表記はNimrudだが、しばしば「Nimroud」と綴られた。発見の例については1848年12月16日の記事を参照)の発掘(1845~51年)で掘り出し、(イングランドに運んだ)美術品を同紙が豊富な図版を入れて報道したことは、20世紀にさらに目立ってくるその主題に対するやや偏執狂的な情熱を予感させた。

「大英博物館に最近納められたニムルドの彫刻」1848年12月16日
"The Nimroud Sculptures Lately Received at the British Museum." Illustrated London News, 16 Dec. 1848, pp. 373+. The Illustrated London News Historical Archive, 1842-2003.

 

もう一つの大胆なイノベーションは、色の導入である。1855年のクリスマス号は、英国の新聞として初めてカラー印刷図版を掲載し、それ以降、読者にも広告主にも広く人気を博するクリスマスの慣例となった。

「クリスマス補遺」1855年12月22日
"Christmas Supplement to the Illustrated London News." Illustrated London News, 22 Dec. 1855, p. [729]. The Illustrated London News Historical Archive, 1842-2003.

 

名物新聞になる

酒と借金で身を持ち崩したF・W・N・ベイリーは、1848年までに副編集長のジョン・ティムズ(John Timbs)にその職を明け渡していたが、1852年、『モーニング・クロニクル(Morning Chronicle)』の編集長を経て同紙に加わっていたチャールズ・マッケイ(Charles Mackay)が正式に編集長となった。マッケイといえば、『狂気とバブル:なぜ人は集団になると愚行に走るのか』(Extraordinary Popular Delusions and the Madness of Crowds)の著者として今でも有名な人物だが(エドワード時代の人気小説家、マリー・コレリ Marie Corelli の父親としても有名かもしれない)、当時のロンドンでは最も優れたオールラウンド・ジャーナリストのひとりだった。彼は人材集めに尽力し、1850年代の終わりころまでに160人もの作家や画家、木版職人、編集者を揃えた。1855年、ILNによるクリミア戦争報道が最盛期を迎えていた頃であり(報道の例は1855年2月10日の「Sketches in the Crimea(クリミアにおけるスケッチ集)」を参照)、また忌み嫌われていた新聞への印紙税が廃止されたその年、販売部数は13万部に達した。そしてわずか7年後には、英国皇太子の結婚式報道に支えられて30万部を超えた。

「クリミアにおけるスケッチ集」1855年2月10日
"Sketches in the Crimea." Illustrated London News, 10 Feb. 1855, p. 129. The Illustrated London News Historical Archive, 1842-2003.

これほどの伸びを可能にした最大の強みは、1869年末の『ザ・グラフィック(The Graphic)』の創刊まで、事実上強力なライバルがいなかったことである。イングラムの莫大な初期投資とその後の継続的な再投資に他社が追随するのは難しかったのだ。1843年に創業したヘンリー・ヴィゼテリー(Henry Vizetelly)の『ピクトリアル・タイムズ(Pictorial Times)』は、有能な寄稿者を揃えて順調なスタートを切ったものの、1848年までに廃刊となった。10年後、常に才能豊かなビジネスマンのイングラムは、ボーグとヴィゼテリーの『イラストレイテッド・タイムズ(Illustrated Times)』からさらに深刻な脅威を受けたが、それにはこのライバル紙を買収するという、コストはかかるがシンプルなやり方で対応した。

 

悲 劇

当然ながら、『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の成功はその所有者に莫大な富と名声をもたらした。その両方を強みにイングラムは国会議員となり、新聞価格を人為的に高くしていた新聞用紙への課税に反対して精力的にロビー活動を行ったほか、リンカンシャー州の改良計画に忙殺された。しかし、そうした成功にもかかわらず、イングラムのビジネスと私生活はもつれて心配事が多かった。彼は、やや性急な思い込みや金銭面でのスキャンダルの兆しに加え、ウィリアム・リトルが苦々しい家族間の仲たがいの後、出版人を辞めたこともあり、しばらく10代の長男を連れて国を離れ、米国に行くことを決意した。1860年9月8日の早朝、イングラム親子も乗船し、混雑していたミシガン湖の気船レディエルギン(Lady Elgin)号は、シカゴ北方の荒波の中で木材スクーナー船に追突され、難破した。五大湖の開放水域におけるこの史上最悪の大惨事によって、ILN創設者とその息子を含むほぼ400人の乗客の命が失われた。彼の新聞はこの悲劇の報道においても例にもれず徹底した仕事ぶりを見せた(1860年9月29日、「Loss of the "Lady Elgin" on Lake Michigan(ミシガン湖におけるレディエルギン号の沈没)」を参照)。

ハーバート・イングラム死亡記事

(創業者ハーバート・イングラムの死亡記事)1860年10月6日
"Literature.(The Late Mr. Herbert Ingram, M.P. for Boston.--From a Photograph by John Watkins.)" Illustrated London News, 6 Oct. 1860, p. 306. The Illustrated London News Historical Archive, 1842-2003.

 

画家と職工

イングラムの死から数十年、彼が整備したシステムは、未亡人のアン・イングラム(Anne Ingram)に見守られて成長し、拡大した。彼女は鋭いビジネス感覚をもつ女性で、息子のウィリアムとチャールズが事業経営に参加できるほど成長するまで、出版人のジョージ・レイトン(George Leighton)、編集長のジョン・ラッシュ・レイティ(John Lash Latey)(マッケイの後継者)、アートエディターのメイソン・ジャクソン(Mason Jackson)といった誠実な幹部の助力を得た。このシステムの中心的存在は、いうまでもなく同紙の美術担当スタッフである。彼らは、ILNのロンドンの自社スタジオにある一種の工場で働くスタッフと、特派員としてあちらこちらに出向いてスケッチを送り返すスタッフとで構成され、送られてきたスケッチはスタジオのスタッフが木版用の版木上に完成画として描いた。いずれのケースもスタッフの数が多く多様性に富んでいたため、同紙は多種多様な特殊技能を活用することができた。例えば、ルシエン・デイヴィス(Lucien Davis)は、特にシルクとサテンの光沢をとらえるのが巧みだったため、ファッションや仮装舞踏会の取材に派遣されたし、ハーバート・レイルトン(Herbert Railton)やその弟子のホランド・トリンガム(Holland Tringham)などの画家は、風景や古い建物の表現に優れていた。同様に、ルイス・ウェイン(Louis Wain)とスタンリー・バークリー(Stanley Berkely)は猫と犬(それぞれ)が専門、T・スコット(T. Scott)は、写真が使われるようになるまで同紙の主要肖像画家だった。

しかし、まちがいなく最も華やかな役回りは「芸術家特派員(special artist correspondent)」が担った。1850年代のクリミア戦争では6人の画家が取材した一方、1870年では普仏戦争の光景を読者に届けるため5人が派遣された。もちろん、その仕事には危険が伴った。例えば1870年のフランスである特派員はスパイとして射殺されないよう自分のスケッチをやむなく飲み込んだ。大英帝国の絶頂期には、のちに歴史家のバイロン・ファーウェル(Byron Farwell)が「Queen Victoria’s little wars(ヴィクトリア女王の小さな戦争)」と呼んだ一連の紛争を取材するため、このような特派員が世界の果てまで派遣された。短躯で禿頭、マトンチョップスタイルの頬ひげを生やし、甲高い声で話す画家のメルトン・プライア(Melton Prior)は、19世紀最後の約30年間、最も世界を飛び回った特派員だった。彼は1873年のアサンテ(アシャンティ)作戦で名をあげ、30年の間に同紙向けに26の戦争を取材したと公言した。

(メルトン・プライア)「黄金海岸における戦争」1873年12月13日
"The War on the Gold Coast." Illustrated London News, 13 Dec. 1873, p. 589. The Illustrated London News Historical Archive, 1842-2003.

 

記者と作家

とはいえ、ILNの成功、そして歴史家にとっての重要性をその図版だけに帰するのは誤りだろう。創刊号の「48段のニュース」は、添えられた図版に負けず劣らず誇るべきものであり、実際、その本文と挿絵の入り組んだ関係性こそが今なおILNを魅力的な研究対象にしているのである。読者は、豊富な政治のニュース記事やその日の話題を扱った論説(「リーダーズ」)、壮麗な行事、戦闘、建造物、発明、考古学的発見、災害、選挙など多くの出来事の詳細な描写に酔いしれた。しばしば肖像画が掲載された訃報欄も珍重され、時に特別な依頼が来ることもあった。例えば1865年、在任中に死去した英国首相としては最後のパーマストン卿の逝去の折には、ベテランジャーナリストでILNの論説記者のシャーリー・ブルックス(Shirley Brooks)が呼び寄せられ(豪勢に18ポンドが支払われた)、この熱狂的な愛国者として有名だった政治家本来のイングランド人らしさに敬意を表し、ウェリントン公爵の葬儀報道に匹敵する本格的な回顧録を作成した。フィクションも目玉として初期の主要商品となり、世紀末には満開の花を咲かせることになる。そのころには、ライダー・ハガード(Rider Haggard)、J・M・バリー(J. M. Barrie)、ウィリアム・ブラック(William Black)、ヘンリー・ジェイムズ(Henry James)、トーマス・ハーディ(Thomas Hardy)といった著名な作家による物語や小説が掲載された。

トーマス・ハーディ「恋の霊」1892年10月8日
Hardy, Thomas. "The Pursuit of the Well Beloved." Illustrated London News, 8 Oct. 1892, pp. 457+. The Illustrated London News Historical Archive, 1842-2003.

 

コラム

さまざまな話題を扱うコラムニストの採用は、同紙が人気を維持できたカギの一つだった。目が眩むほど多くの作品を残したインヴァネス出身のジャーナリスト、アンガス・B・リーチ(Angus B. Reach)による1850~51年のコラム「Town Talk and Table Talk(巷談・雑談)」は、インサイダーによる軽妙な文芸ゴシップコラムの先駆けとなった。(例えば、物議を醸した芸術家集団が使った謎めいたイニシャル、「PRB」がラファエル前派(Pre-Raphaelite Brotherhood)を指すということを多くの読者が初めて知ったのはここだった)。このコラムについては、サリー・ミッチェル(Sally Mitchell)のエッセイ、『The Illustrated London News: Celebrities and Gossip Columns(英文)』にこれだけを取り上げた段落があるので参照されたい。さまざまな見出しが付いたこの種のコラムは何十年も読者を楽しませ、ピーター・カニンガム(Peter Cunningham)やシャーリー・ブルックス、さらには(35年間にわたる)博覧強記で鳴らしたプレーボーイのジョージ・オーガスタス・サラ(George Augustus Sala)などの有能な書き手によって、生き生きと話題性をもち続けた。「Our Note Book(我々の覚書)」というコラムは、G・K・チェスタトン(Chesterton)、アーサー・ブライアント(Arthur Bryant)などの熱意ある書き手の下で20世紀まで頑張り続けた。(ジュリア・ステイプルトン博士(Dr. Julia Stapleton)のエッセイ『The Illustrated London News and ‘Our Note Book’(英文)』を参照。)

また、常に政治の儀礼的側面の報道の最前線にあったILNは、ジョン・レイティの論説『Silent Member(沈黙する議員)』で下院(庶民院)の人物模様や駆け引きをゴシップっぽく紹介した。1886年から1918年までの1,500本以上続いた先駆的なフェミニスト、フローレンス・フェンウィック・ミラー(Florence Fenwick Miller)によるコラム「Ladies Notes(淑女のためのノート)」は、さまざまな女性の問題に関する影響力のある意見表明の場となり、きわめて進歩的な主張を展開した。アンドリュー・ウィルソン博士(Dr. Andrew Wilson)は自身の「Science Jottings(科学メモ)」(1890~1912年)で、自然史に焦点を当てながら科学界の最新ニュースについて書き綴った。同紙の目玉記事の中でも、聡明かつ辛辣でしばしば挑発的なチェスの名人、ハワード・スタントン(Howard Staunton)が1845年から主宰したチェス・コラムほど熱心なファンを誇れるものはない。スタントンのコラムは、絵入りでチェスの問題や最新の対局を分析したり、投書に対してしばしば辛辣に切り込んだ返答をしたりするのが特徴で、30年間近くにわたって世界的に強い影響力を持つようになった。

科学メモ/チェス/レディーズ・コラム 1888年11月24日
Wilson, Andrew. "Science Jottings." / "Chess." / Fenwick-Miller, Florence. "The Ladies' Column." Illustrated London News, 24 Nov. 1888, p. 619. The Illustrated London News Historical Archive, 1842-2003.

 

20世紀に入って

『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』は20世紀になっても常に新機軸を取り入れ、人気は上昇し続けた。1900年にハーバートの孫のブルース・イングラム(Bruce Ingram)が編集長に就いてからの60年間、同紙は2度の世界大戦を取材し、タイタニック号の沈没やツタンカーメン王墓の発掘(1923年2月3日の初回特集号を参照)など、忘れがたい出来事を異例の充実した報道ぶりで読者に届けた。しかし、ヴィクトリア時代と同様に、現代のILNの最も特徴的な文化的生活への貢献は、国内外の大小さまざまな出来事を毎週着実に、地道に報道し続けたことであろう。ILNは、時代と市民の生きざまを単に「映し出した」のみならず、その両方の形成に深く関与したのである。今、その紙面に印刷されたとおりの図版と本文を探索する機会を得たことは、世界初の絵入り新聞と、それを生み出し、支えた社会への理解を確実に深めることになるだろう。

 

『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』歴史アーカイブのホーム画面

無断転載を禁じます。

引用書式の例:リアリー、パトリック(センゲージラーニング株式会社 訳)「『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』小史」 Illustrated London News Historical Archive 1842-2003. Cengage Learning KK. 2022

関連資料のご案内

       

お断わり

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