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はじめに

第二次世界大戦期 難民・強制移動関係文書集(Refugees, Relief and Resettlement: Forced Migration and World War II)には、戦時中の迫害と逃避の範囲、影響、爪痕が広範囲にわたり反映されている。本エッセイでは第二次世界大戦中および終戦後の世界的な人口の強制移動の規模と範囲を考察する。また、民間人の救済と再定住にかかわった主要機関の活動についても考える。

 

移動する人々:第二次世界大戦前・戦中

避難民のグローバルな特性は、第二次世界大戦の勃発前からすでに明白となっていた。1937年7月以降、日中戦争を受けて中国人難民が爆発的に急増した。少なくとも4,500万人の中国人が国内避難を強いられ、中国北部や東部から占領されていない地域へと移動した。その総数は全人口の4分の1に相当する1億人との推計もある。イギリス政府は、植民地香港におよぶ影響を危惧し、中国南部に巨大な難民キャンプの設置計画を立てている。これは、日本の爆撃を受けないであろう地域に、見込まれる人数の中国人難民の女性と子供を受け入れるというものであった(CO 129/570/3)。また、1937年と1938年に中国本土から香港にたどり着いた困窮イギリス人難民向けの対策も用意された。これらの他に外国人難民があり、主に広州と漢口から来たロシア人であった。彼らは、1917年から1921年の間にロシア革命と内戦を逃れ、同地に移住したが、再び避難を強いられたのである(CO 129/570/1)。イギリス政府のファイルは、さまざまなルートで香港に入る人数の管理と地元難民委員会の負担の大きさに関する懸念を明らかにしている。

中国南部の難民キャンプ設置計画について(CO 129/570/3)

中国南部の難民キャンプ設置計画について(CO 129/570/3)
Sino-Japanese War: Proposed Refugee Camp in Demilitarised Area of South China: 1938 June 1-1939 Jan. 11. June 1, 1938-January 11, 1939. MS Refugee Records from the War Cabinet, the Colonial Office, the Home Office and the War Office, 1935-1949 CO 129/570/3. The National Archives (Kew, United Kingdom). Refugees, Relief, and Resettlement: Forced Migration and World War II.

ヨーロッパでは、フランコの軍によるスペイン共和国派敗北の影響が権力の回廊に響き渡った。1939年までに30万人前後のスペイン人難民がフランスに向かい、成人男性は間に合わせの収容所に抑留された。また、数千人がメキシコで安住の地を見つけている。スターリンは難民の子供たち5,000人をソビエト連邦に受け入れることに同意した。イギリスの取り組みは、主に非公式のものであったが、こちらも難民の子供たちを受け入れる旨がファイルに記されている(FO 371/49599)。成人に関して言えば、公務員の取り組みはあまり評価できるものではない(FO 371/24519)。

スペイン人難民の選別について(FO 371/24519)

スペイン人難民の選別について(FO 371/24519)
Spanish Republican Refugees. Code 41 File 331. 1940. MS Refugee Records from the General Correspondence Files of the Political Departments of the Foreign Office, Record Group 371, 1938-1950 FO 371/24519/331. The National Archives (Kew, United Kingdom). Refugees, Relief, and Resettlement: Forced Migration and World War II.

ナチスによる迫害が激化するにつれ、ドイツを逃れるユダヤ人の亡命も勢いを増していくが、そのニーズの大きさに比べて国際社会の取り組みははなはだ不十分であった。結果的には、何百万人もの人々が中央、東ヨーロッパで逃げ場を失ってしまう。1938年7月、フランクリン・ルーズベルト大統領はユダヤ人難民の受け入れを増やすよう海外諸国に呼びかける試みとしてエビアンで国際会議を開いた(イギリスでは、FO 371/22537によれば一部をタンガニーカに移住させ、FO 371/66738によればドミニカ共和国に再定住させる可能性について、漠然とした議論がなされている)。しかし、この会議は大失敗だったと広く受け止められている。エビアン会議を受けて、政府間難民委員会(Intergovernmental Committee on Refugees, IGCR)が設置されたものの、ナチスに応じる気がなかったことと、国際社会が難民に門戸を開く件について譲歩しなかったことから、なかなか進展が見られなかった。戦時中、IGCRはほぼ何もできない状況に置かれていたが、後に新たな機関が登場した際にその専門知識の価値が示されることとなる。

ドイツ出身のユダヤ系難民の推定分布 1933年4月~1938年3月(エビアン会議資料より)

ドイツ出身のユダヤ系難民の推定分布 1933年4月~1938年3月(エビアン会議資料より)
International Conference on Refugees, Evian. June 30-July 2, 1938. MS Refugee Records from the General Correspondence Files of the Political Departments of the Foreign Office, Record Group 371, 1938-1950 FO_371_22528_W8851. The National Archives (Kew, United Kingdom). Refugees, Relief, and Resettlement: Forced Migration and World War II.

時として公式記録に個々の難民の窮状を垣間見ることもできる。世界のユダヤの救済(World Jewish Relief)の文書には、ウィーン生まれで、文豪と同姓同名のシュテファン・ツヴァイク(Stefan Zweig)が、1939年5月、ミラノの住所からイギリス人実業家のシグマンド・ゲステットナー(Sigmund Gestetner)に宛てて、イギリスに行けるように手を貸してもらいたいと記した懇願が含まれている。ツヴァイクは、ペルーにいる友人と合流するためにイタリアに向かったが、旅費の資金繰りに苦しんでいたのである。数日後、ゲステットナーは手を貸せないと返信している。記録はここで終わっているが、国際追跡サービス(International Tracing Service, ITS、1948年に国際難民機関 International Refugee Organisation が設立)保有のファイルによれば、ツヴァイクは大戦を生き延び、オーストリアに戻っている。一方、ゲステットナーは、自身のコネクションを利用してハンガリー系ユダヤ人の亡命を手助けしている(世界のユダヤの救済文書集を参照)。

S・ツヴァイクからS・ゲステットナーに宛てた手紙

S・ツヴァイクからS・ゲステットナーに宛てた手紙
Sigmund Gestetner. January 3, 1938-February 4, 1946. MS Archives of the Central British Fund for World Jewish Relief, 1933-1960 119. World Jewish Relief. Refugees, Relief, and Resettlement: Forced Migration and World War II.

資料群は、難民の救済・支援に関する民間の取り組みにも脚光を当てている。イギリスのボランティア団体は、スペイン人救済全国合同委員会(National Joint Committee for Spanish Relief)の後援を受けてバスク人の子供たちを何百人も救助した。1937年にバスク人難民の子供たちのために尽力したドロシー・ソーニクロフト(Dorothy Thornycroft)の積極的な指揮下にあったワージング難民委員会(Worthing Refugee Committee)を始めとする草の根団体が、ユダヤ人難民中央評議会(Central Council for Jewish Refugees)と協力して抑留されたユダヤ人難民の支援に当たっている。

ニースを拠点とする団体の “マグナ・カルタ”(Magna Charta)は、国籍を奪われたユダヤ人難民に書類を提供していた(FO 371/24075)。強い決意を持った若いイギリス人の経済学者、ドリーン・ワリナー(Doreen Warriner)は、ヒトラーによるチェコスロバキア侵攻前夜に、何百人にものぼるズデーテン・ドイツ人の反ナチス難民とユダヤ人家族をプラハから救出している(FO 371/24082 と FO 371/24083)。その一方で、ドイツで訓練を受けた難民看護師の行き場をイギリスの植民地で探す取り組みは、当局から冷たくあしらわれた(CO 850/145/20)。

また、東部中央ヨーロッパからユダヤ人を組織的に再定住させるという提案も出ていた。例えば、ポーランド人実業家、ミハウ・グラーゼル(Michał Glazer)は1938年5月にポーランドからのユダヤ人移住に資金提供を申し出ている。その目的は、ポーランド政府を「過剰人口の負担」から救済することであったが、これは実質的には迫害の原因をユダヤ人自身に帰するもので、ポーランドとドイツにおける経済活動においてユダヤ人が表面上 “優位” に映っていたためであった(FO 371/24075)。

ミハウ・グラーゼルの提案書より(FO 371/24075)

ミハウ・グラーゼルの提案書より(FO 371/24075)
Jewish Refugees - London Intergovernmental Committee. Code 48 File 45 (Papers 1514 - 4234). 1939. MS Refugee Records from the General Correspondence Files of the Political Departments of the Foreign Office, Record Group 371, 1938-1950 FO 371/24075. The National Archives (Kew, United Kingdom). Refugees, Relief, and Resettlement: Forced Migration and World War II.

ヨーロッパで戦争が勃発すると、民間人難民の大移動にともなう諸問題は組織的な避難と再定住によってさらに複雑化していった。ドイツによるフランス侵攻は500万人の民間人を逃避させる結果となった。その他の者は、捕らえられ、強制労働のためにドイツに連行されている。占領下のポーランドとソビエト連邦西部からはさらに多くの民間人が拉致、連行されていった。1944年1月までにナチスの戦争経済は660万人前後の民間人(そして200万人前後の戦争捕虜労働)を搾取している。フランスにいた外国人難民は大いに苦しめられ、ヴィシー政権は約30万人のスペイン内戦難民を北アフリカに国外追放、彼らはその地で抑留され、建設プロジェクトでの労働を強いられた。

他にも資料群は、第二次世界大戦中の難民の歴史における、あまり知られてないエピソードに光を当てている。例えば、1941年の冬、赤十字の助けを借りて、数千人のギリシア人の子供たちを差し迫った飢餓から救うべく、トリポリ、カイロ、アレッポ、バグダッド経由でインドに避難させた事例がある(IOR/L/PJ/8/435、FO 371/32637)。1942年には、2万人前後のギリシア人難民が中東に移送され、2,700人がベルギー領コンゴへ、1,000人がエチオピアに送られている。しかし、その他をモーリシャスに送る計画は実現しなかった(FO 371/32645、FO 371/32647、FO 371/32653)。

ギリシア人の子供たちの疎開について(FO 371/29207)

ギリシア人の子供たちの疎開について(FO 371/29207)
Evacuation of Greek Children. Dec. 1941. MS Refugee Records from the General Correspondence Files of the Political Departments of the Foreign Office, Record Group 371, 1938-1950 FO_371_29207_W15356. The National Archives (Kew, United Kingdom). Refugees, Relief, and Resettlement: Forced Migration and World War II.

ソビエト連邦は大量の強制移住と難民救助を並行して行った。スターリン政権は “大祖国戦争” の間に、ドイツ系、ポーランド系、クリミアタタール系、チェチェン系、イングーシ系など、何百万人もの民間人をシベリアや中央アジアに強制退去させている。その一方で、本データベースの資料群は、モロトフ=リッベントロップ条約(独ソ不可侵条約、1939年8月)と1941年6月のナチス侵攻(バルバロッサ作戦)を受けたユダヤ人やポーランド人の運命についても豊富な情報を提供している。1939年、約25万人のユダヤ人がナチス占領下のポーランドからソ連の支配地域に逃避した。1941年、ナチスがポーランド、ベラルーシ、バルト諸国を占領したことにより、その多くが逃げ場を失ってしまうが、100万人近くのユダヤ人が1941年から1942年にかけてソ連国内に退避し、救われた可能性がある。やがてその多くは、ルーマニアで生き延びたユダヤ人たちとともにパレスチナへと向かうのであった。

同様に、何十万人ものポーランド人が、兵士、民間人にかかわらず、中央アジアやシベリアに強制退去させられたり、避難したりしている(シベリアにいるポーランド人の子供たちの様子についてイギリスを拠点とする慈善団体が行った問合せについては FO 371/42796を参照)。1941年7月にアンデルス軍団が結成されると、スターリンは、彼らが西側連合国の戦争努力に加われるよう、ペルシアとインド経由で退避させることに同意した。資料群には、タンガニーカ(タンザニア)、北ローデシア(ザンビア)、ケニアなどにおける、こうした兵士と家族の暮らしぶりに関する重要な情報が収められている(FO 371/32653、IOR/L/PJ/8/417参照)。

タンガニーカのポーランド難民についての報告(FO 371/32653)

タンガニーカのポーランド難民についての報告(FO 371/32653)
Report on Polish Refugees in Tanganyika. January 7, 1942-January 7, 1943. MS Refugee Records from the General Correspondence Files of the Political Departments of the Foreign Office, Record Group 371, 1938-1950 FO_371_32653_W17317. The National Archives (Kew, United Kingdom). Refugees, Relief, and Resettlement: Forced Migration and World War II.

また、本コレクションの資料群は南アジアにおける避難の実情も浮き彫りにしている。その中には、ビルマを逃れたインド人難民の体験に加え、その避難の手配にかかわったインド森林サービス(Indian Forest Service)の高官J・S・ヴォーリー(J.S. Vorley)大佐に関する記録もある。ヴォーリーは1945年以降、「陸軍のために現地人労働力を調達する」名目で、「避難民、強制退去者、枢軸国の組織労働者、国外追放者などを入れる」収容施設の計画を立て、彼らの救済に貢献した(FO 371/51097)。

すべての事例が難民関連というわけではない。ファイルの中には抑留された個人に関する情報もある。そのうちの一人が、ハンガリーに生まれ1932年にエチオピアに渡ったホルサ・バルトロメオ(Holusa Bartolomeo)である。イタリア征服下では成功を収めていた彼だったが、1942年7月、同国の占領に成功したイギリス軍に家族ともども抑留されてしまう。一家はケニアに移送され、終戦までニエリ収容所に抑留されていた。1946年に彼はイギリスによる扱いのみならず、エチオピア当局の拒絶によって帰国が認められないことについて苦情を申立てている。ハンガリーに帰国するという選択肢を与えられたのだが、結果的にインド洋のフランス海外県、レユニオン島に向かった。

 

救済・再定住の計画

救済・再定住にむけた取り組みの起源は、ロンドンとワシントンで行われた難民の生活必需品を含む基本的な物資の供給に関する協議にさかのぼる。アメリカのルーズベルト大統領はすでに1942年11月の時点で外国救済・復興事務局(Office of Foreign Relief and Rehabilitation Operations, OFRRO)を設立していた。1943年5月、戦後の食糧の需要、供給、分配を協議すべく、バージニア州ホットスプリングスで開かれた連合国会議に44カ国が参加し、救済と復興に関する包括組織、連合国救済復興機関(United Nations Relief and Rehabilitation Administration, UNRRA)の設立が合意されている。その目的は、「救済プログラムの実施に必要な国家経済の諸部門を正常に機能する状態に戻し、自助に着手するうえで必要な手立ての一部を、各国とその国民に提供する」ことであった。同事務局は、11月、元ニューヨーク州知事のハーバート・H・リーマン(Herbert H. Lehman)の指揮下で始動した。複数のUNRRA小委員会が、健康と医療、避難民の支援、任意救済機関との関係を監督した。

全米計画協会(National Planning Association)が1944年に出版した『ヨーロッパの故郷を追われた人々:避難民の移転(Europe’s Uprooted People: The Relocation of Displaced Population)』という重要な文書がある(FO 371/42836)。同文書は、本国送還、吸収、再定住の余地について検討したうえで、これらの解決策は「戦後の政治的・心理的状況により、一定の苦しみを伴うとはいえ、特定の人口交換および移転、ならびに祖国から受け入れ希望国への大勢の移住が必要となるという事実を隠すことを意図したものではない」と締めくくっている。これが戦後の連合国政策となっていった。

『ヨーロッパの故郷を追われた人々:避難民の移転』より

『ヨーロッパの故郷を追われた人々:避難民の移転』より
Europe' s Uprooted People. September, 1944-April 19, 1945. MS Refugee Records from the General Correspondence Files of the Political Departments of the Foreign Office, Record Group 371, 1938-1950 FO_371_42836_WR1346. The National Archives (Kew, United Kingdom). Refugees, Relief, and Resettlement: Forced Migration and World War II.

難民救済事業は1944年5月に本格化した。ヨーロッパでは、ドワイト・D・アイゼンハワー(Dwight D. Eisenhower)最高司令官とハーバート・リーマンが交わした合意に基づき、各国政府が避難民・難民管理の責任を担えるようになるまで、UNRRAは連合国遠征軍最高司令部(Supreme Headquarters Allied Expeditionary Force, SHAEF)に事実上従属することになった。UNRRAは数々のチームを設置し、それぞれを各仮収容所に配属して避難民の秩序だった本国送還に集中させた。

ハーバート・リーマンは、2,000万人にのぼる避難民(「苦しみ、家を追われた人々」)の帰還を支援しなくてはならないと推算している。避難民の規模についての推計は、当初、連合国戦後必要物資委員会(Inter-Allied Committee on Post-War Requirements)によるものだった。同委員会は「リース=ロス委員会」と通称され(チャーチルの主席経済顧問、フレデリック・リース=ロス卿 Sir Frederick Leith-Ross にちなむ)、基本的な物資の需要と供給を見積もる責任を担っていた。1943年春には、各亡命政府と王立国際問題研究所(Royal Institute of International Affairs)から供給された情報に基づき、『避難民問題に関する統計文書(Statistical Statement on the Problem of Displaced Persons)』をまとめている。その推計によると、難民の数は約1,250万人とされているが、この数値には戦時中に東に向かったソ連国民の移動が含まれておらず、ロシア人人口統計学者エフゲニー・クリシェル(Eugene Kulischer)がその数を1,000万人と見積もっていることから、難民の総数はヨーロッパだけで約2,250万人にのぼったことになる。

ヨーロッパ外の地域については、UNRRAは中東救済・難民局(Middle East Relief and Refugee Administration、MERRA)も吸収している。これは、1942年6月イギリス政府がギリシア人、ユーゴスラビア人、アルバニア人難民を支援すべく設立した組織だった。UNRRAは、エジプト、パレスチナ、シリアにある6つの大規模難民キャンプの管理を引き継いでおり、ここで1944年末までに37,000人を越える難民を収容した。

さらに、UNRRAは中国事務局も構え、その避難民部は1947年までに華僑をビルマ、マラヤ、英領北ボルネオ、サラワクの故郷に帰還させる事業に重点的に取り組んでいた(FO 371/66731)。また、フレッド・へーラー(Fred Hoehler)が1945年12月13日付けでUNRRA極東委員会の第10回会合に提出した報告書によれば、UNRRAは、何百万人にものぼる中国の国内避難民に加え、極東にいた15,000人前後のユダヤ人難民(元はドイツ系およびオーストリア系)の救済活動も監督している(FO 371/51109)。中国共産党の勝利と中華人民共和国の建国を受けて、中国人難民が香港や台湾に逃避したことにより極東における難民の数は増加していった。

ビルマ華僑のビルマへの帰還についての文書(FO 371/66731)

ビルマ華僑のビルマへの帰還についての文書(FO 371/66731)
Displaced Persons in the Far East. Code 48 File 586. 1947. MS Refugee Records from the General Correspondence Files of the Political Departments of the Foreign Office, Record Group 371, 1938-1950 FO 371/66731. The National Archives (Kew, United Kingdom). Refugees, Relief, and Resettlement: Forced Migration and World War II.

ユダヤ人難民は、“生き残った者”(ヘブライ語で Sh'erit ha-Pletah)の象徴だった。自由党関係者の中心的な人物で、ケンブリッジ難民委員会の一員だった、ルーシー・マスターマン(Lucy Masterman)は、1944年10月、ウィンストン・チャーチル宛ての書簡で、イギリス国内のユダヤ人難民が本国への送還を望まない場合には英国市民権を付与するようにと提案している(FO 371/42894)。しかし内務省は一切の包括的提案は却下し、事案ごとにその理非に応じて注意深く検討する必要があると指摘した。この間、当局は彼女の要請に対し、連合国はドイツとオーストリアにユダヤ人差別に関するナチスの法律をすべて公式に無効化するよう断固主張したという内容の主張をしてはぐらかしている。

戦後、ポーランドとソ連の合意によって、主として1946年に約17万5,000人のユダヤ人がポーランドに送還された。資料群は1945年と1946年に “潜入”(infiltration)と “不法移民”(illegal Immigrants)をめぐって延々と続けられた論争について明らかにしている。これらの用語は、ポーランドに強制送還されていたユダヤ人の連合軍占領下ドイツ英米地区への帰還移住を特徴づけるものとして用いられた(FO 1006/552)。その多くがヨーロッパを永遠に離れたいと考えていたことから、イギリス当局は、パレスチナへの移住に課した制限がないがしろにされるのではないかとの懸念を抱いたのである。1946年1月、ドイツにおけるUNRRA活動責任者を務めていた中尉のフレデリック・モーガン(Frederick Morgan)卿は、シオニスト “計画” を口にするが、逆に、ホロコースト生存者に対する適切な支援を否定していると非難されてしまう。1947年夏までには、主に占領下ドイツのアメリカ地区で、約25万人のユダヤ人が “潜入者” として登録されている。その大半がヨーロッパ大陸以外の地、すなわち、パレスチナ/イスラエルもしくは米国での生活再建を希望していた。

行政上の取り決めは独特の官僚表現を生んだ。例えば、“非難に値するドイツ人”(obnoxious Germans)の “受入と処置”(reception and disposal)で、これはスペイン、ポルトガル、スウェーデン、アルゼンチンといった中立国から本国に送還されることなった、海外在住のドイツ人商人、宣教師などを指して用いられた。資料群には、スパイ活動、妨害工作、宣伝工作、その他の親ナチ活動に関する広範な情報が含まれている(FO 371/55343 ~FO 371/55359、FO 1052/368)。“処置”(disposal)という用語は、1942年にポーランド人がソ連からペルシア、インドに避難した際(IOR/L/PJ/8/413)や終戦時にユーゴスラビア人難民をエジプトから計画的に本国送還、再定住させた際にも使用されていた(FO 371/66675)。

非難に値するドイツ人の受入と処置について(FO 1052/366)

非難に値するドイツ人の受入と処置について(FO 1052/366)
The Reception and Disposal of Obnoxious Germans Returning from Neutral Countries: Vol I. June, 1946-March, 1947. MS Refugee Files from the Records of the Foreign Office, 1938-1950 FO 1052/366. The National Archives (Kew, United Kingdom). Refugees, Relief, and Resettlement: Forced Migration and World War II.

しかし、すべてが官僚用語で表現されていたわけではない。難民を、国籍を失った故に政府から “破門”(excommunication)された人々で、“生存の社会的基盤をすべて奪われている”(deprived of every social basis of existence)とした記述もある(FO 371/57674内、1946年4月8日から6月1日までの間にロンドンで開催された国連経済社会理事会、難民と避難民に関する特別委員会で採決された難民と避難民の定義案に対するオランダ代表の声明を参照)。

また、資料群は、難民キャンプの運営に関する情報も提供している。中東では、1944年から1947年までの間、カイロの東100マイルに位置するエルシャット(El Shatt)のようなキャンプで、約25,000人の主にユーゴスラビア人の難民が収容されていた一方で、ギリシア人の難民はその近くに位置するモーゼズ・ウェルズ(Moses Wells)に滞在していた(FO 371/51202)。文書において「並外れて良好に組織、運営されている」と評されたエルシャットは、診療所、学校、劇場、遊び場、洗濯施設などの設備が整っていた。クロアチア人難民がキャンプ新聞まで発行していたほどである。イギリス人高官が “反体制派”(dissidents)と呼んだ多くの難民は、戦後、ユーゴスラビアへの帰還を拒んだ。イギリス政府は、彼ら難民がエジプトに居続けることについて “当惑”(embarrassment)の意を示している。最終的には、IRO(国際難民機関)の助けを借り、大人を “良いタイプ”(fine types)、子供を “素晴らしい”(splendid)市民候補と評したオーストラリア政府の同意を受けて、その多くがオーストラリアへと渡っていった(FO 371/66675)。

エルシャット・キャンプ難民のオーストラリアによる受入れについて(FO 371/66675)

エルシャット・キャンプ難民のオーストラリアによる受入れについて(FO 371/66675)
Disposal of Yugoslavs in Egypt. October 2-December 4, 1947. TS Refugee Records from the General Correspondence Files of the Political Departments of the Foreign Office, Record Group 371, 1938-1950 FO_371_66675_WR3799. The National Archives (Kew, United Kingdom). Refugees, Relief, and Resettlement: Forced Migration and World War II.

難民キャンプは時に、憎悪に満ちた政治的対立を引きずる場ともなった。例えば、ユーゴスラビア人のチェトニクとチトー共産主義支持者との間の対立がそうである。1947年1月には、ナポリのキャンプでユーゴスラビア公式代表団の一員として訪問していた本国送還担当官がチェトニク系の難民に攻撃され、その負傷が原因で後に亡くなるという事件が起きている。これを受けて、イタリア政府は、すべてのユーゴスラビア人をイタリア全土から退去させ、ドイツに移すようイギリス軍当局に要請した(1947年2月3日の米国国務省ファイルおよびFO 371/48918)。

とりわけ大きなファイルで、いわゆる「反体制派避難民」(Dissident Displaced Persons)の本国送還を取り扱ったものがある。これは主にウクライナ出身のポーランド人、「かつてはポーランド人であったが、現在はロシア人」である人々についてのものである。このファイルには、氏名、誕生日、出生地、1939年9月1日時点の居住地、どこの誰に引き渡されたかがリストされている。1945年9月にアーネスト・ベヴィン(Ernest Bevin)外務大臣は、イギリス指揮下のポーランド軍によるソ連人の扱いに関してソ連が申し出た苦情を受けて、1939年9月時点にソ連の国境外に居住していたウクライナ人は「本人が希望するのであれば、本国への帰還を認めるが、本国送還を希望しない者については、本人の希望に反して本国送還されることはなく、ソ連当局者の下に置かれることもない」とソ連大使に忠告した。ただしこれには、1939年9月1日時点にソビエト領土に居住していた全ソビエト国民は「本人が希望しようと、希望しまいと」本国に送還されなくてはならないとした、ヤルタ協定の諸条件に基づく公式確認も添えられていた(FO 945/598。FO 1020/2467も参照)。

ウクライナ難民のソ連への帰還について(FO 945/598)

ウクライナ難民のソ連への帰還について(FO 945/598)
Soviet Nationals: Repatriation of Dissident Displaced Persons. 1945-1946. MS Refugee Files from the Records of the Foreign Office, 1938-1950 FO 945/598. The National Archives (Kew, United Kingdom). Refugees, Relief, and Resettlement: Forced Migration and World War II.

本国送還を支援すべく、避難民は仮収容所に集められた。1947年7月、UNRRAの活動部長は避難民救助活動に関する第7回報告書を発行し、避難民と祖国にいる親族との郵便による連絡が容易になったことに助けられ、本国送還は順調に進んでいると述べている。また、「キャンプ内外の本国送還に反対する団体や個人の活動」のために、バルト人とウクライナ人はより非協力的となっているとも報告している。UNRRAは、一部個人のキャンプにおける地位を剥奪したり、ポーランド人の反本国送還委員会を解散させたりするために介入している(FO 371/66694)。1945年から1947年までの間に、合わせて約500万人のソビエト国民がソ連に帰還した。

冷戦が激化するにつれ、UNRRAは、国際難民機関(International Refugee Organization, IRO)にその役割を譲っている。1946年12月、18加盟国によって採択されたIRO憲章には、「国籍国、もしくは、かつての常居所に戻る、または、別の新たな居住地を探す」うえでその資格を有する難民と避難民を支援するとうたわれていた。IROは、多くの避難民が母国への帰国を望んでおらず、スターリンの手が届かない地に再定住したいと考えていることを認識していた。IROに全く関与しなかったソビエト連邦は、IROがヤルタ協議に反して、戦争犯罪人や逃亡者を特定し法の裁きを受けさせるためにソ連に帰還させるのではなく、彼らを保護するものであると激しく非難した。米国国務省の記録は、戦後ドイツにいたさまざまなロシア人とウクライナ人亡命者の政治的見解に関する当時の分析を提供している(1949年5月25日のファイルを参照)。ソビエトの連絡将校が継続的にキャンプを訪れ、時には温かく迎え入れられると安心させようと祖国にいる親族からの書簡をたずさえたりしつつ、断固抵抗していた避難民に帰国を促していたが、大半の避難民の決意は変わらなかった(FO 1013/2097)。また、本国送還を望まないポーランド人に関する状況も広範に議論されている(FO 371/57780)。

アメリカ占領下ドイツ内のウクライナ人亡命者の政治的見解について

アメリカ占領下ドイツ内のウクライナ人亡命者の政治的見解について
U.S. State Department Records Related to Problems Affecting European Refugees, May 25 1949 File. May 18-September 27, 1949. TS Records of the Department of State Relating to the Problems of Relief and Refugees in Europe Arising from World War II and Its Aftermath, 1938-1949. National Archives (United States). Refugees, Relief, and Resettlement: Forced Migration and World War II.

さらに、本コレクションのファイルは、特にバート・アーロルゼンにある国際追跡サービスのオンライン・アーカイブとあわせて読むと、難民と避難民の現地雇用や最終的な再定住に関する豊富な情報源にもなる(FO 371/66649、FO 371/66721、FO 1052/556参照)。IROは、赤十字、YMCA/YWCA、アメリカ・フレンズ奉仕団(American Friends Service Committee)、全国カトリック福祉評議会(National Catholic Welfare Conference)、ユダヤ人共同配給委員会(Jewish Joint Distribution Committee)といった非政府組織と緊密に連携していた。経済再建に要する労働力不足に直面していたイギリス政府は、1946年と1947年、工業、農業、林業の分野で、また、病院の用務員として働く男女を採用すべく、ドイツやオーストリアのキャンプをくまなく探してまわった。当初の文書では、バルト・シグネット作戦(Operation Balt Cygnets)、西へ向かえ作戦(Operation Westward Ho)と称されていた(FO 1052/416、FO 1006/513、FO 371/57869)が、これによって採用された難民は欧州志願労働者(European Volunteer Workers)に名称が変更され、厳しい「審査」と「オリエンテーション」プログラムを経て、その数は、1946年から1951年の間に8万人を超えている。これはイギリスに限られたことではなく、その証しとして、同様に炭鉱労働者に避難民を採用したベルギー政府の取り組みが挙げられる(FO 371/66664)。

西へ向かえ作戦の統計ファイルより(FO 1052/416)

〈西へ向かえ作戦〉の統計ファイルより(FO 1052/416)
'Westward Ho' Statistics. 1947. MS Refugee Files from the Records of the Foreign Office, 1938-1950 FO 1052/416. The National Archives (Kew, United Kingdom). Refugees, Relief, and Resettlement: Forced Migration and World War II.

1948年6月25日に制定された避難民法(Displaced Persons Act)に基づき、約40万人の避難民がアメリカに渡った。他にも、カナダ、オーストラリア、南米に渡った人々がいた一方で、受け入れ候補の政府が課した「健康・衛生規制」措置を満たすことができなかった、もしくは有罪判決を受けたことがある(極めて軽微な犯罪のことが多かった)などの理由から、ドイツ、オーストリア、イタリアのキャンプで何年も過ごすことになった「自主的定住」(self-settled)者も多くいた。

IROは1950年末までに段階的に縮小され、国連難民高等弁務官事務所(United Nations High Commissioner for Refugees, UNHCR)がその任務を引き継いだ。UNHCRの権能は1951年難民条約に準拠しており、同条約では、難民が個人的に「人種、宗教、国籍もしくは特定の社会的集団の構成員であることまたは政治的意見」を理由に「迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有する」場合、保護を申請することができるとの一般原則が承認されている。注目に値するのは、難民条約が1951年1月1日前にヨーロッパで生じた事象によって住む場所を失った難民に限り適用され、チェコスロバキア、ポーランド、ハンガリーから追放された何百万人ものドイツ系人を対象としていない点である(例えば、FO 371/66753にズデーテン・ドイツ人の境遇が記されている)。同条約には、難民を迫害された国に戻すことはできないと原則として掲げられている。1954年4月22日に発効した同条約は、それ以降、国際難民法の基礎として存続してきた。

スウェーデンによるズデーテン・ドイツ人労働者の受入れについて(FO 371/66753)

スウェーデンによるズデーテン・ドイツ人労働者の受入れについて(FO 371/66753)
Resettlement of Sudeten Germans in Sweden. Code 48 File 3360. 1947. MS Refugee Records from the General Correspondence Files of the Political Departments of the Foreign Office, Record Group 371, 1938-1950 FO 371/66753. The National Archives (Kew, United Kingdom). Refugees, Relief, and Resettlement: Forced Migration and World War II.

 

結 論

1954年、アメリカ・フレンズ奉仕団の重要人物であったルイス・W・シュナイダー(Louis W. Schneider)は、20世紀半ばに生じた避難民の調査を実施している。

今世紀の大規模救済、再建、難民支援に関するステレオタイプには、不気味で悲劇的な単調さがある。スペイン人難民、ユダヤ・政治難民、避難民、追放された人々、逃亡者、パキスタン、パレスチナ、朝鮮、南ベトナム。巨大な政府機関と小さなボランティア機関たちは同様の問題の後処理のために、次はどこに重い足取りで向かわなくてはならないのだろう?

シュナイダーの生々しい表現は、1945年以降の難民危機の世界的な規模に注意をうながしている。これは、最近の紛争や新たな内戦によるところもあったが、ヨーロッパと南アジアで起きた組織的な人口移動と交換によるところもあった。強制移民の総数は1億7,500万人に達する可能性がある。

本デジタル・プロジェクトは、イギリス政府の政策に関する豊富な情報に加え、アメリカの取り組み、そして20世紀史の危機的時代に難民の扱いに関する決定がどのようになされてきたのかについても相当の情報を提供している。また、その他の重要な関係機関、すなわち、現存しない政府間機関(UNRRAとIRO)、そして、戦前から存在した、あるいは戦時中に登場し、その多くが現在も難民支援を続けているボランティア機関が果たした役割についても詳細を提供している。第二次世界大戦期 難民・強制移動関係文書集に収められている資料群は、大規模な避難民とその制度的対応の歴史に関心を抱くあらゆる者にとって欠かせない情報源である。

第二次世界大戦期 難民・強制移動関係文書集のホーム画面

第二次世界大戦期 難民・強制移動関係文書集のホーム画面

 

 

重要な追記として、本データベースに収録されている一次資料をよく理解するためには同時代の研究者の仕事を参照するのがよいということを記しておきたい。とりわけ Joseph B. Schechtman, European Population Transfers 1939-1945(New York: Oxford University Press, 1946)、Malcolm J. Proudfoot, European Refugees: a Study of Forced Population Movements(Evanston: Northwestern University Press, 1957)、Louise Holborn, The International Refugee Organization: a Specialized Agency of the United Nations, its History and Work, 1946-1952(London: Oxford University Press, 1956)が挙げられる。

より近年の研究として特筆すべきものは Ben Shephard, The Long Road Home: the Aftermath of the Second World War(Bodley Head, 2010)、G. Daniel Cohen, In War’s Wake: Europe’s Displaced Persons in the Post-War Order(New York: Oxford University Press, 2012)、Jessica Reinisch and Elizabeth White, eds, The Disentanglement of Populations: Migration, Expulsion and Displacement in Postwar Europe, 1944-49(Palgrave Macmillan, 2011)、Marta Dyczok, The Grand Alliance and Ukrainian Refugees(Basingstoke: Macmillan, 2000)、Diana Lary, The Chinese People at War: Human Suffering and Social Transformation, 1937-1945(Cambridge: Cambridge University Press, 2010)が挙げられる。

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引用書式の例:ガトレル、ピーター(センゲージラーニング株式会社 訳)「第二次世界大戦期 難民・強制移動関係文書集について」 Refugees, Relief, and Resettlement: Forced Migration and World War II. Cengage Learning KK. 2022

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